1893年に書かれたオスカー・ワイルドの戯曲<サロメ> ラストで洗礼者ヨハネの生首に口づけする背徳的シーンで有名ですね。 このお語しは聖書に記された<ヘロディアスの娘>のエピソードからインスパイアされた、あくまでも作家の創作物語であります。 しかし、このサロメとおぼしき女性は歴史上に存在してたらしく、古代ユダヤ王家の系図からその人物を特定することが出来るのだそうです。 洗礼者ヨハネの首を求めた、過激なパンク娘<サロメ姫> 今となっては真偽のほどは分かりませんが、聖書に記さずにはいられないほどの欲望渦巻くスキャンダラスな事件が、当時の王室で実際に起こったのは確かなようです。 史実とストーリーとが融合される形で、後世の人々に長く伝えられて行ったのでしょう。 あらすじはこんな感じです。 ユダヤのヘロデ王は自分の兄である前王を殺し、妃を奪って権力の座についた。 しかし妃の連れ子である王女サロメによこしまな目を向けている。 その視線に絶え切れなくなったサロメは宴の席を外れ、預言者ヨカナーンが幽閉されている井戸へと向かう。 預言者は不吉な言葉をわめき散らし王家を呪い、妃から嫌がられている。 預言者との接触は王に禁じられているのだが、サロメは色仕掛けで見張り番をそそのかし、その姿を見てしまう。 そして恋してしまうのだが、ヨカナーンの方は彼女の忌まわしい生い立ちをなじるばかり。 まるで相手にされていない。 誘惑を拒絶されたサロメは、余興の舞いの褒美として預言者の首を求めるのである。 自分のことを見向きもせず、拒み続けた預言者ヨハナンを屈服させるため、首を切り落してでも口づけする。 プライドをケチョンケチョンに潰された、高貴な女の欲望には恐ろしいものがありますね。 このサロメという女性(正確には母と娘の血の系譜)は、ある意味<イッちゃった女>の元型とも言えます。 愛と権力とを完全にはき違えています。 思い通りにならない恋の情念が、執念となり、怨念になって行くのです。 銀の皿に乗せて運ばれる、愛する男の生首。 「自分のことを見たならば、ヨカナーンも自分を愛したはずだ」と、罵詈雑言で本心をあらわにし、その生首に口づけることで彼女なりに恋を成就させる。 耽美さが際立つ、この物語のクライマックス部分です。 この手のスキャンダルって他人様の噂話しとして聞く分には、とても楽しくてワクワク興奮しちゃいますよね。 愛に関するゴシップって千差万別・多種多様。 なのにどんな話しにも、人間としてどこかで共感出来ちゃうのが面白いです。 そしてしみじみ思うのですが、激しい愛っていうのは行き着くところまで行ちゃうと、急に手のひら返したように憎しみにシフトしてしまうんですね。 ジェットコースターみたいなものです。 上がったものは同じだけ急降下する。 愛の物理学にはある種の法則性があるのでしょうか? それを解析出来たならノーベル賞ものの大発見かも知れませんね。 ♬隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた 誰かにとられる くらいなら あなたを 殺していいですか♬ <天城越え> サロメの首切り口づけ事件って、何だかあの<阿部定事件>を彷彿とさせます。 サロメにしても阿部定にしても、愛の傾向性に同じ匂いを感じるのです。 愛する男を絞め殺しイチモツを切り取って持ち去った阿部定と、愛する男との口づけのため首を切り取らせたサロメ。 片やフィクション、片やノンフィクションではありますが、どちらも愛の究極の果てまでを覗き込んだ、ある意味とても勇気ある女性たちです。 彼女らの動機は至ってシンプル。 「愛しいひとを自分の思う通りにしたい」 「相手を独り占めにするためには殺すしかない」 そんな一方的な情念のモチベーションです。 私は兼ねてから本当の意味で残酷なのは男じゃなくて、むしろ女なのじゃないかと思っているのです。 これは女の中の、特に母性の影響力が大きいのでしょう。 肉体とは女の身体から生まれるもの。 母性とは命を生み出す力と同時に、命を破壊する力をも持ち合わせている。 だから女にとってみれば愛するものの肉体など、いとも簡単に自分と同化してしまうんですね。 母性が愛の対象と同一化してしまうと、破壊願望もより強力になります。 逮捕された阿部定は、取調室で「好きな男のモノを好くのは当たり前です」と供述したといいます。 その感覚なんかは、母親が赤ちゃんの<おてて>や<おしり>を愛おしいと思う感じ、「食べちゃいたい」と思う感じに近いですよね。 母性にはそういう側面があるのです。 だから母性の暗黒面って、恐ろしく残酷さを含んでるんです。 いやぁ~、女ってホントに怖いものですね。(笑) 女を知れば知るほど、愛することの奥深さを学ぶことになるのかも知れません。 しかしまぁ、いずれにしてもサロメの愛はエゴイズムの愛の極致であって、それは本当の意味の愛とは違います。 だから長続きはせず、最終的に悲劇で終わる。 結局のところ「涙で終わる愛」というのは、所詮「人間界の我欲まみれのちっぽけな愛」に過ぎないとも言えます。 だから、ほら、聖人たちは皆こう教えてます。 「汝の敵を愛せよ」ってね・・・ オペラ<サロメ>では、愛を知り混乱したサロメがこのように歌うシーンがあります。 ♬愛することの不思議は 死ぬことの不思議より大きい♬ 「確かにその通りだなぁ〜」と思ってしまいます。 <愛の奇跡>とは<死の奇跡>より、確かに不可思議な奇跡です。 しかし聞くところによると、死後の世界に移行しても更に続けて<愛の学び>が用意されてるらしいですよ。 あちらの世界にも現世と同じように課題があって、自分だけのオリジナルテーマに取り汲まなければならないらしいのです。 そして物語は続きます。 <終わりのない物語>です。 ですから皆さんもせいぜい死ぬ時を楽しみにしておきましょう。 この世における<究極の愛>って一体どういうものなのでしょう? 人によりそれぞれでしょうが、あなたの愛はどんな形してますか? 愛する人の生首に、口づけしたいような愛ですか? 愛する人の男性自身を懐に忍ばせ、逃避行するよな愛ですか? 心の奥の魔性の女が、<天城越え>望んでいませんか? ♬何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え♬
by viva1213yumiko
| 2015-12-15 20:21
| オペラ・バレエ・映画
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