カテゴリ:季節・行事( 33 )

ご先祖様とボン・ボヤージュ

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「お盆というのはワクワクします。だってご先祖様と一年ぶりに逢えるんですからね」


いつだったか盂蘭盆会の法要の時に、住職はこんな話をしていました。


お盆になるとご先祖は、わざわざ訪ねて来てくれる。


それってありがたい話しですよね。


霊魂って案外寂しがり屋なのだろうか?


でもそういうことなら、たとえ向こうの世界の住人だろうと、客人として丁重にもてなさないと。


自慢じゃないけど私、天使を招いたこともあるんですよ〜(笑)


見えない世界の訪問者も現実世界と同んなじように接客しなくちゃね。


私ってそういうタイプの人なんです。



お盆の夜ふと目覚めると、ベッドの脇にホログラムみたいなご先祖が現れて、こちらの様子をじ~っと見つめてる。


仮にそんなことが起きたとしても、慌てず騒がずフツーな感じで、淡々と対話したいものですよね。


老人はいるべき場所が居心地悪くて、きっと落ち着けないからやって来たのでしょう。


だからせめて一言、ねぎらいの言葉を掛けてあげよう。


「あの世もそれなりの苦労があるんですね~ お気持ち分かりますぅ~」


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しかし毎年お盆の度に先祖の訪問を待っているより、自分から先祖を直接訪ねた方が、断然面白そうに思えます。


この世とあの世はコインの裏表です。


我々の日常のすぐそばに「あの世はたたみ込まれるように存在する」とか言われてます。


異界探訪? 霊界通信?


それとも異次元へのトリップ?


お盆休みの旅行には、すぐそばにある異世界を訪ねてみるのもありですよね。


ボン・ボヤージュ!


どうか良いバカンスを!


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映画<アサシンクリード>は500年前の祖先お記憶を訪ね、過去の世界にボン・ボヤージュしてしまうそんな物語です。


製薬会社アブスターゴ社が開発した、DNAから先祖の記憶を読み解く装置<アニムス>


その装置を使えば祖先の人生を追体験出来るという画期的な発明です。


死刑執行を免れた犯罪者が選ばれ、15世紀のスペインで異端の暗殺者集団に属してた祖先の記憶を訪ねる。


そして失われた秘宝のありかを探るというそんなお話しです。


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原作は大ヒットしたゲームソフトです。


アサシン教団のDNAを媒介に、現在と過去とを行ったり来たりしながら、主人公と一緒に歴史の秘密を探しに行く。


ゲームファンでない人は専門用語について行けない部分もあるけど、これ、必ずしも荒唐無稽なお話しとは言いきれませんよ。


昔から長老たちが語り継いだ<永遠の真理>が見え隠れしていて、個人的にはとても興味深く感じました。



物語のテーマを長老風に表現するとこんな風になる。


「お前の血の中にご先祖様は生きておる。いつだってお前を見守ってくれているのじゃ」


お盆の時期でもない限り、我々現代人に長老の言葉の奥深さを伝えるのは難しい。


でもそんな時、この<アサシンクリード>のお話しが、案外役に立ちそうです。

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主人公カラムはDNA記憶装置<アニムス>を使い、暗殺教団の祖先アギラールの人生を追体験する。


しかしその副作用で、祖先の記憶や体験などが流れ込む<流入現象>に悩まされます。


それは先祖の記憶と現在の記憶とが混合し始めた証拠。


ご先祖のホログラムが出現したり、彼らのパワーが使えるようになったり、不思議な現象も起こり始まる。


DNAの中に眠った記憶を追体験するうちに、彼の精神は過去のご先祖にどんどんシンクロして行くのでした。


[我々の肉体には祖先の記憶とか感覚が、眠ったまま継承されている]


このお話にはそのようなテーマがあります。


人間のDNAは祖先の持つ情報を引き出す力があるかも知れない。


「もっと情報公開して欲しい」と望んだら、大幅な情報公開で、知恵やヒントを授けてくれることでしょう。


このようにご先祖様はあなたを守ってくださっている。


だからお盆の時ぐらい守護霊様に感謝しましょう。


リスペクトしましょう。


そうすれば先方も大いに喜んで、あなたをもっと助けたくなるはずです。



そういえば昔、沖縄のユタさんがこう言ってたっけ。


「ネエネのカラダの中にサァ~ 7代までのゴシェンジョ様が生きてるサァ~」



人間を構成する思考や感情のパターンは、親からもらった遺伝子に左右されます。


親自身もその親から遺伝子を受け継ぎ、その親も更にその前の親から遺伝子をもらっている。


そんな感じで過去をさかのぼって行けば、なるほど [7代前までのDNAが人の心に影響を及ぼす] のも頷けない話しではありません。


私たちのDNAの中には<ファミリー・シークレット>と呼ばれる秘密があります。


抑圧や恐れ、不機嫌や暴力・・・


それらの源泉となる秘密が、禁断の場所に隠されているのです。


その因子は遠い先祖からDNA経由で運ばれると言う。


その可能性は歪めない気がします。


ご先祖たちの人生に足を踏み入れ、隠された<ファミリー・シークレット>を探りたくなりますね。

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映画のようにセンサーを脊髄に差し込み時間遡行する方法。


それも決して悪くはありません。


でも人が高度に成長し、霊性の高みに登り詰めたなら、そのような意識の境地に自然と達するらしいのです。


機械などに頼らなくても100%シンクロ出来ると言われます。


魂の進化が究極まで進むと、そういうことが平気で可能になるそうです。


未来の私たちはそのような人間像を目指し、進化して行くことになるのでしょう。


そうなれば別にお盆に限らなくても、いつだって望んだ時に守護霊様とコミュニケーション出来るはずです。


なかなか楽しそうな未来図じゃありませんか?



人生という名の航海


それをどう進んだら良いか?


どうせならあなたの魂が震えるような、そんな旅を体験して欲しい。


ボン・ボヤージュ!


どうか良いバカンスを!


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by viva1213yumiko | 2017-08-13 21:24 | 季節・行事 | Comments(0)

初詣のあれこれ

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初詣のお参りとは、去年一年を無事に過ごせたことに感謝し、新しい一年の幸福と健康を新たな気持ちで祈る行事のこと。


日頃神仏のことなどこれっぽっちも意識しない人でも「お正月くらい初詣に行こうかな?」「じゃないとバチ当たりかな?」なんて思うものです。


正月って結構ヒマだし、家でグータラするのもいい加減飽きるし、家族との会話も特にないし・・・


だから必然的に「初詣でも行くか」「屋台で何か食べるとするか」


と、こうなります。


多くの人が三が日に初詣するその本当の理由は、屋台が出ていたり、お神酒や甘酒が振舞われたりするから。


正月用の<イベント戦略>のなせる業ですよね。


ま、すべての聖なる儀式は、巧みに非日常を演出した行為だとも言えます。


イベント結構! エンタメ結構!


スピリチュアルはあくまでも楽しくなくっちゃね。


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でも昔はそうじゃありませんでした。


江戸時代には大晦日の夜から元旦の朝にかけ、それぞれの家の家長が氏神の社に籠る習慣があったそうです。


これを「年篭り」と呼ぶのですが、この儀式には<死霊>を呼び出す意味合いが強かったそう。


先祖の<死霊>はその年の<年神様>となります。


そして初日の出と共に降臨し、子孫の繁栄を見守って下さるのです。


だから五穀豊穣を祈って、先祖の死霊と積極的にコンタクトを取った。(つまりゆく年くる年降霊会だ)


年越しの儀式とは、もともとそのように神秘的なものだったのです。


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それにしてもなぜ人は新年になると初詣しなきゃならないと、本能的に思ってしまうのだろう?


信仰心のあるなしに関わらず、多くの日本人の血がほとんど反射的にそう思ってしまいますよね。


我々のDNAに何者かが号令してるんでしょうか?


「日本人よ、今こそお参りすべし!」とね。


すると日本人の集合意識はそれに立ちどころに反応する。


「初詣、今年はどこ行く?」


「え? 行かないの?」


「そんなのあり得ない! きっとバチ当たるよ~」


年末年始はそれぞれの共同体メンバーと同調することを強要されます。


昔っからそう・・・


じゃなければ村八分です。


「人混みに疲れて心が汚されるので、私はひとり静かに祈ります」


そんなこと口にしようものなら、非国民のレッテル貼られかねません。


個人主義の傾向の強い人には、日本のお正月はちょっと居心地悪い行事と言えるかも知れませんね。


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日本人は神聖なものも、俗っぽいイベントに仕立てあげちゃうのが得意です。


季節の農耕行事とスピリチュアリティーとをちゃっかり合体させちゃう、そういったしたたかさがありますよね。


だいたい神仏混淆の文化なのだから、お参りも神社だけって訳じゃなく、お寺でもどこでもOK。


要するにとてもフレキシブルなのです。



私は初詣の時、幾つも寺社巡りするのは浮気っぽくて良くないことだと思ってましたが、実はお参り回数の制限なんてないんだそうですよ。


たくさんの寺社仏閣を巡るのも全然アリだそうです。


また地元の氏神様には「必ず三が日の間にお参りするもの」と親に言われて育ったので、初詣って1月3日までに行かないと功徳がないものと思ってました。


けれどそれも単なる刷り込み。


親から受け継いだ<勘違いの遺産>だったのです。


初詣になぜ<初>の字がつくかというと、それは今年最初の参拝を意味してるからなんです。


三が日の間の参拝が正しい訳ではありません。


だから極端な話し、初詣が3月でも4月でも別に構わないことになります。


梅や桜が咲く頃になって「ようやくこれから初詣でありんす」って開き直ってみても、それはそれで構わなかったんですね。

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結局初詣とは、自分好みのご利益のある神社やお寺に、自分の好きなように行けば良いってことみたいです。


神社にはいつお参りしても良いし、何度行っても良い。


お参りすればするほどご利益はあるものなのです。


でも全く行かないとしても、特に祟りがある訳でもない。


ルールや戒律みたいなものもなく、極めてゆる~い神様が、かしこみかしこみ、そこにはおわす。


ようは物見遊山を楽しみながら、神様に新年のご挨拶に伺えば良いのです。


温泉みたいにほっこりしてる日本のスピリチュアル文化には、脱力系がお似合いなのです。

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お参りする時大事になるのは、ハウツーよりもむしろ動機。


神社に「どう」お参りするかより、「なぜ」お参りするかの方が問われます。


神社のお参りは行ったからどうなる、行かないからどうなるというものではありません。


<本気の願望>が大切で、中途半端な気持ちでは望みは成就しないんですね。


ポイントはあくまでもここ。


【本気で祈った者にはきっと良いことが起こる】です。


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<引き寄せの法則>以来、潜在意識にポジティブな願いをオーダーすれば望みは叶うって認知され広まりました。


それは本当だしそれ自体が悪いことではありません。


でもただ祈るだけじゃ効果的でないのも事実です。


望みとは、他力本願して棚ボタで叶うようなものじゃありません。


祈るのと同じくらい努力することも必要で、やれることの全てをやって、なおかつ神様にお任せするのが最も望ましいんですね。


「人事を尽くして天命を待つ」って奴です。


それも欲得抜きの気持ちで努力しなければ、多分願望は実現しないでしょう。


祈願とは<棚ボタ>や<まじない>ではないのです。


ちゃんと努力して自分の手でチャンスを掴まなければ、本当の意味でのご利益は手に入らないんですね。


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初詣のお参りとは神様への新年のご挨拶。


あくまでも表敬訪問です。


<お天道さん><お陰さん>に感謝の気持ちを表現すること。


目には見えない大きな何かに畏敬の念を示すこと。


それがお参りの本質です。


落ち込んだ時や、良くない状況に陥った時も、その状況に感謝してプラス思考を表明する。


神様は強い子がお好き。


だから芯の強さが必要なんです。


実際に辛い時そうするのが難しいのは良く分かるけど、敢えてそれをその度表明する。


それが人間の精神に光を灯すことなのです。


迷いの森から抜け出すきっかけを、自ら作ることになるんです。


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神様に逢いに行ってみてご覧なさい。


神社のご神体っていうのは、別にどうってことない丸い鏡ですよね。


でもその時初めて鎮座していた神様が、鏡に映る自分だったと気づかされるのです。


つまり神とはイコール自分のこと。


神様は有名なお社の奥の院で、私たちを見下ろしてる訳じゃないんですね。


神様は自分自身の中にいるんです。


そう信じて、神様との信頼関係をしっかり築いて下さいね。


結局「心におわす神」だけが、望みを叶える力を持っているのです。



お参りとは、人が人らしくあるために人が考えた智恵だと言えるでしょう。


自らのプラス思考を繰り返し表明するようなものです。


年が明けたら是非神様にご挨拶に行ってみて下さい。


もちろん、物見遊山を楽しみながらね。



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by viva1213yumiko | 2016-12-30 20:30 | 季節・行事 | Comments(0)

アヴェ・マリアのバラード

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毎年クリスマスのこの時期になると、幼稚園でのクリスマス・キャロルを思い出します。

教会付属幼稚園では恒例行事として、園児に<キリスト生誕>のお芝居を演じさせるのです。

飼い葉桶に眠る幼子イエスと、その聖家族を祝福する東方の三賢者。

<ルカによる福音書>の美しい名シーンを、園児たちがたどたどしいセリフ回しで演じる。

親御さんや先生方にとっては、笑いと感動に満ちたクリスマスなのです。


ベツレヘムの聖夜のお芝居・・・

その中でも花形なのは、やはりマリア様です。

女の子なら誰もが秘かにマリア様の役どころを望むんですね。

もちろん私もマリア様を夢見てたのですが、その年割り当てられたのはなんと、モミの木の役。

ベニアの書き割りを持って、過剰にヘラヘラと愛嬌を振りまき、♬主〜ワッ来ィマッセ〜リ〜♬ と歌っておりました。

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聖母マリアとは<永遠の処女性>の象徴です。

<純潔の白百合><穢れなき魂>を意味します。    

少女だったマリアは男を知らぬままイエスを身ごもり、大天使ガブリエルに受胎告知されちゃうのです。

名曲<アヴェ・マリア>とは、聖母マリアへの典礼の言葉に曲がついたものですが、どれも皆その時天使が語った祝福の言葉から始まります。(最初の2行)



   おめでとうマリア 恩寵に満ちた方 

   主はあなたとともにおられる

   女性のうちで祝福された方

   そしてあなたのお腹の子 イエスも祝福されている

   聖なるマリア 神の御母

   罪人なる我らのために祈りたまえ

   今も 我らの死の時も アーメン



なかなか感動的な受胎告知であります。

しかしこの受胎告知、マリア本人にしてみれば「レレレ・・・?」って感じだったんじゃないでしょうか。

だって覚えもないまま受胎させられ、「あんた妊娠してんだよ。これって名誉なことなんだよ。」って天使に告げられるんですよ?

現代の都市伝説なら、これはエイリアンのアブダクション事件そのものです。

マザーシップに拉致されて、知らぬ間に生体実験され、そのあげくに異星人から妊娠を告げられる。

「祝福なんて冗談じゃないわ! やってらんないわよ、まったく!」

なんて、マリア様はそんな風には思わなかったのでしょうか?

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カトリック神学では、マリアは純潔で穢れがない<神の母>で、<無原罪の女>であるとされています。

旧約聖書の女イヴは原罪を犯し楽園を追放されましたが、新約聖書の女マリアは原罪のない清らかな女であるという訳です。

結構ご都合主義っぽい感じもするのですが、原節子さんみたいな<永遠の処女>って、昔から人々の花形ヒロイン像だったんですね〜

だからでしょうか、4世紀ぐらいになるとマリア様のように処女のまま生きることを選ぶ女性が増えて来たんだそうです。

<キリストの花嫁>として修道生活を送り、<神のはしため>として生きるのです。

<はしため>・・・

これは<はしたない女>ってことじゃありません。

自分の命と人生は、神に生かされているものとし、神の望まれる意思にピッタリ寄り添って生きること。

自分の人生にふんぞり返り、困った時だけ神を呼ぶような調子の良い自我を殺して、もっと大きな意思のため、身を捧げて懸命に生きる人のことです。

そういう生き様をする女性は、皆<永遠の処女>です。

ホントに処女か処女じゃないかが問題じゃないんですね。


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マリア様って無原罪なのだそうです。

無原罪とは、東洋風に言うと「カルマがない」ってことですね。

「カルマのない清らかな女性だから神に気に入られ、救い主イエスの母に選ばれたのだ」

と、そういう理屈なんですね。


しかし神学でいくらマリアの霊性を説明されても、そんなこと民衆の信仰心にはどうでもよいことだったに違いありません。

庶民にとってのマリア様とは、自分たちを抱きしめて癒してくれる母性愛の象徴です。

愚かな我々をいつまでも許し続ける<慈母観音>のような存在です。


だから処女のまま救世主を宿すという話しの中には、多分「清らかな母性の力で人は救われる・再生される」って意味が込められていたのだと思います。

エジプトのイシス神など、伝統的な大地母神への信仰が、自然な形でマリア教に代わっていったのでしょう。

キリスト教が現われる以前からあった、異教の女神の神殿が、マリアに捧げられる教会へと変容したのだと思います。

そういう意味で、マリア様は人類救済の歴史を引き継いでいるんですよね。

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<穢れなき永遠の処女>であり、<神の花嫁>であるマリア。

それは地上と天界をつなぐ仲介者でもあります。

だからマリア様が出現した場所は巡礼地となり、パワースポットにもなっているんですね。

もしあなたの周りに乙女のように清らかで、そして聖霊とも交信出来るようなお母さんがいたなら、その人はきっとあなたにとっての地母神ですから、大いに大事にして頂きたいです。


いずれにしてもイエスのような救世主の母親には、それと同じくらい純粋で、器の大きな女性じゃなければダメなのでしょう。

名曲<アヴェ・マリア>とは、偉大なる母性を讃える歌だったのです。

キリスト教版の「母に捧げるバラード」なんですね。




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by viva1213yumiko | 2015-12-23 13:28 | 季節・行事 | Comments(0)

愛別離苦

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「お暑い中のご供養、本当にご苦労様です。」

母親のお供で盂蘭盆会の法要に参加すると、住職は冷たいお茶をどうぞどうぞとすすめてくれた。

「昨今の夏の暑さはいかんともしがたいものですなぁ。 暴力的とでも言いますかな・・・」

人体に危険なレベルの暴力的な暑さのこの日。

お盆に呼び出されるご先祖の霊たちも、これには驚いてしまうことだろう。

ヤル気のないスピリッツばかりが集合する、そんなお盆になりそうだ。(笑)

お経をBGMに聞きながら、参加者全員が順に焼香をする。

そして最後に住職の法話があるのだが、本日のお題は<愛別離苦>についてであった。

つい最近、親しかった後輩が乳飲み子を残したまま急逝し、悲しみに暮れる細君のためにも、今日は是非この話しをさせて欲しいとのことである。

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<愛別離苦>とは・・・

仏教における苦の分類<四苦八苦>の中のひとつであり、「どんなに愛する者同士もいつかは別れなければならない」そんな苦しみのことを指します。

配偶者の死・離婚・夫婦別居・近親者の死

愛する者と別れる苦しみは、人間の心のストレスの中で最も強いものなんだそうです。

確かに家族や仲間との生活は永遠ではありません。

必ずや別れの時がやって来るのです。

「どんな愛も別離のない愛はなく、いつかは必ず別れることになっている」

それがこの世の悲しい真実、無常の世界のことわりって奴なのです。


我々は「人を慈しみ、大切にし愛せよ」と教えられて育ちました。

だからその愛情が大きければ大きいほど、それを失った時の苦痛も大きくなります。

そんなに苦しいことが先に待ってるなら、愛することをしなければ楽に生きられるだろう、愛さなければ良いのだろうと思いますが、愛なくして生きることなど出来ないのも、それもまた人間の真実です。(ああ無常)

そこには大きな矛盾がありますねぇ。

その矛盾した世界のことを仏教では苦界と呼ぶんだそうですよ。

苦界・・・?

やっぱり人の世とは、苦しい世界なのかなぁ?

はて、人生をこのように仏教観で捉えると、何だか生きるのが嫌になりそうで、ホント困っちゃいますよね。

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仏教では<愛>というものを他を慈しむ・大事にするという意味じゃなく、愛執・渇愛・欲愛などの自己中心的な煩悩(執着)だと理解しています。

キリスト教の<愛>とはちょっと違うみたいなんです。

愛の煩悩(執着)が燃えさかることによって、我々は苦悩に迷い続けなければならない。

「生死の大苦界に浮き沈みする凡夫」というのが我々の姿だと言うのです。

誰だってこんな苦界で溺れるのは、もう止めにしたいに決まってる。

そこで仏教は「悟りを得ましょう」と教えるのです。

凡夫である我々は罪障(カルマ)を滅して、悟りの世界・浄土の世界への往生を目指すべきである。

「じゃなければずっと苦界で溺れ続けることになるんですよ。知ってました?」

って、そんな感じの教えなんです。


なぜ別れは辛いのでしょうか?

それは愛しているからであります。

実際愛してなければ、別れがあろうがちっとも辛くないんですねぇ。(笑)

本当に深く愛し合ってる男女に限って、むしろ辛い別れが待ち構えていたりするのは、愛という名の<執着を手放すレッスン>が用意されてるからなのかも知れません。

神や仏のなさることは時に残酷で、理解に苦しむことが多いのです。

愛をテーマにした悲しい別れの物語は、この現実世界の中で、日々尽きることなく生まれて来るのです。

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よく配偶者と死別した人に「時が癒してくれる」と言って慰めたりしますが、そんなのその当事者にしてみたら全く受け入れられない言葉でしょうね。

でもその人たちも、だんだん落ち着いて現実を受け入れられるようになると、やはりその通りだと思えるようになるんだそうです。

だから<愛別離苦>の苦しみに今現在直面してる人と、それを乗り越えた人とでは当然温度差が生じます。

精神的に落ち込んでる人はアドバイスを聞き入れる状況にはないし、善意の慰めもマイナス効果になることがありますよね。

苦しんでる人の話しは聞く方も辛いですが、相手を見て悲しみを理解し寄り添ってあげる、そのことが何よりも一番大切なことなのです。


<愛別離苦>の苦しみを乗り越える。

大事なのは苦しみに逢わないようにすることじゃなく、苦しみにあったとしても負けない自分を作ることなのでしょう。

筋トレして丈夫な身体を作るようなものです。

悲しみの深さは人それぞれだと思います。

悲しみが癒えるまで時間がかかる場合もあるでしょう。

しかし乗り越えさえすれば、故人の分・別れた人の分まで、必ず前を向いて歩いていける時が来るはずです。

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<愛>とは何か?

最も大切なことなのに親も先生も教えてくれません。

国語・算数より大事なはずなのに、なぜ学校でも教えてくれないのでしょうか?

誰もが皆んな持ってるはずなのに、誰も教えられないって何か変ですよね。


<愛>は個体じゃないし、液体でも気体でもない。

形態でも質量でもない。

あれでもないし、これでもない。

<愛>とは何ものでもありません。

しかし<愛>はある。

静かにただ存在してるんですよね。

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「愛とは決して後悔しないこと」

往年の名画<ある愛の詩>には、こんな台詞がありました。

「クサい台詞だなぁ」と当時は思ったものですが、実はなかなか含蓄のある言葉だったんだなぁ~と、今更ながらに思ってる私なのです。




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by viva1213yumiko | 2015-07-16 14:50 | 季節・行事 | Comments(0)

冬期ウツの自分セラピー

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「真冬になると精神的に落ち込む」という声を良く聞きます。

お正月のハレの時期が過ぎると、とたんにやる気がなくなって、2月末くらいまでウツっぽく過ごしちゃうという人が多いのです。

これ、冬期ウツとも呼ばれ、この時期は皆んなやけに内省的になりやすいので、やり過ごすためには一工夫が必要なのです。

かく言う私も、イマイチ元気が出なくて困ってるところ・・・

「いつでも溢れんばかりのエネルギーに包まれていたい!」という理想像はあるのですが、寒さでなかなか起きられない→グズグズする→思い通りに物事が進まない→イラつく→ストレス解消に一杯→楽しくなる→調子に乗る→飲んだくれる→ますます起きれなくなる。

そんな堕落スパイラルに落ち込んでしまうのです。

最も本物のウツだったら飲んだくれる気力もなくなるはずなので、これはまぁ、プチウツとかアンニュイって感じなのでしょうか?

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プチウツねぇ〜・・・う~む。

私の心の奥では、一体何が起こっていると言うのでしょうか?

たまには自分自身を客観的に知るのも良いと思い、タロットをめくってみることにしました。

何か問題があるとしたら、その迷路から抜け出すヒントがきっと見つかるはず。

冬期ウツに似たモヤモヤがどこからやって来るのか、それは一体何者なのか、そしてどうやってそこから抜ければいいか、自分自身でタロットセラピーしてみるのです。


心を静めて、カードに疑問を問いかける。

そして、ゆっくりとカードをめくってみる。

問いかける、めくる・・・

問いかける、めくる・・・

納得するまで繰り返してみるのです。

すると光明の光が差し、目からウロコが落ちるように、モヤモヤの原因が分かって来ました。

私のこのモヤモヤ気分・・・

なんとそれは、自分を愛してないという証しだったんです!(驚)

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本来人は自分自身を受け入れ愛していれば、どんな不幸だって、どんな境遇だって、どんな感情だってやり過ごせるはずなのです。

100%自己充足して自分を愛せれば、愛を受け取ることにOKを出せるからです。

心を開いて宇宙から注がれる愛情を100%受け入れる。

そうすると、次にはそれら全てを他者へ分け与られる程の、大きな豊かさが回り始めます。

けれど残念ながら、殆どの人がそうは出来ません。

皆んな自分に不満が残っているから、宇宙から贈られて来る愛を拒絶し、豊かさや喜びを感じられないでいるのです。

それには理由があるんです。

それは、人は<条件付けされた愛><パターン化された愛>しか知覚出来ない、そういう癖を持ってるからなんですよね・・・

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<愛の条件付け><愛のパターン化>を理解することはとても大切なんです。

例えば母親に厳しく育てられ、心の中の寂しさ弱さを表現出来なかったAさん。

自分の想いより先に、まず人の感情から優先する癖があります。

例えば自分の辛い感情を怒りの形でしか表現出来ないBさん。

当然、周りとはトラブルばかりが起こります。

そして人生の空しさを権力やお金で解消しているCさん。

人との深い心の交流を望んでいるのに、なぜか皆んな避けて行きます。


彼らの問題のルーツは<条件付けされた愛情>、つまり愛し方の癖に原因があるのですが、果たして本人がそこまで気づいているのかどうか・・・

けれどそこに気づくかどうかで、彼らの人生は雲泥の差になっちゃうんですよ!

人は不満と悲しみが溜まると自己不信が募り、ついつい周りの人々や自分自身を傷つけてしまいがちです。

だからこそ内面に隠された弱い部分・脆い部分は、セラピーで愛の光にさらけ出す必要があるんですね。

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人は皆、誰かの愛を欲しがるものです。

もっと親の愛を貰っていれば、自分はこんな人生を歩まなかった。

あの時彼が(彼女が)もっと自分を愛してくれたら、こんな風にならなかった。

ってね・・・

でもね、本当に必要なのは誰かが与えてくれる愛ではありません。

必要なのはむしろ「自分自身とひとつである」という質のようなものです。

自分自身との折り合いをつけること。

誰よりも自分を愛することが大切になって来るのです。

愛を知りたければ自分自身を癒し、許し、自分に満足することが、まず先決となります。

自分への慈悲の心を持てるかどうかが鍵になるんですね。


もしあなたも、冬期ウツかも知れない?と思うなら、是非とも自分をセラピーしてみて下さい。

心のモヤモヤを整理整頓してスッキリさせると、色々なものが見えて来ますよ。

毎年冬になると落ち込んでしまうという方は、それは神が与えてくれるセラピーチャンスと考えてみて下さい。

冬っていうのは宇宙と対話するのに相応しい季節です。

きっと冬はそのためにある時間なんでしょうね。


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   冬をしっかり越さない限り、春をしっかり感じることはできない。

   それは幸福と不幸のあり方に似ている
                             
                          星野 道夫




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by viva1213yumiko | 2015-01-11 00:30 | 季節・行事 | Comments(0)

聖夜の三味一体

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甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの・・・

おやつや嗜好品に適しているのは、この代表的な3つの味でしょうね。

<美味しい>には、どれも欠かせません。

だからこの3つを繰り返し食べると、エンドレスで止まらなくなります。

チョコとチーズと赤ワイン

シャンパンと生ハムとメロン 

マドレーヌとポテトチップスとレモネード 

みかんと甘納豆とサラダせんべい

いっそのこと、これら甘味・酸味・塩味を合体させた新しい食品があれば、凄いヒット商品になるかも?

そうひらめいてはみたけど、甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの、三味が合体した食べものって案外思い当たらないものですね。

<イチゴ塩大福>とか<ハバネロ黒酢羊羹>とか<サンラータン・アイス>とかどうだろうか?

いやいや、もうすでにアジアン・フードなどで<酸っぱ甘塩っぱい>お菓子はあるのかも知れません。

どなたか情報をお持ちでしたら、三味一体型のお菓子について詳しく教えて貰いたいものです。

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話しはいきなり変わりますが、クリスチャンの皆さんは礼拝の時に「父と子と聖霊の名において・・・アーメン」と唱えますよね。

これキリスト教神学の三位一体という考え方で<父なる神><子なるキリスト><聖なる霊>の三者の位格を讃える言葉なんですね。

ぶっちゃけ三位一体とは「父と子と聖霊、それら3つは元々ひとつであって、ひとつが3つでもありますよ~」って教えなのです。

それって、神様はひとり三役してるって事なんでしょうか? 

あるいは多重人格?

いいえ、似てるようだけどそうじゃないみたいなんです。

三位一体とは、三者が心を合わせてひとつになるという事。

3つの別々のものが結びついて成り立ってるって意味です。

この世界が愛で満ちあふれた美しいものになるように、創造主は父と子と聖霊のパワーを使って3つの次元からちゃんと完璧に我々の面倒を見ていますという教義です。

「父と子と聖霊は、いつでも強力し合って善性のために働いているんですよ〜」

「だからいつでも安心してお任せしてればいいんですよ〜」って教えです。

そういう事なので、唯一の神の中に<父と子と聖霊>の3つの神格が入っていてもそれはそれで辻褄合っているんです。

例えば3本のロウソクの炎をひとつに合体しても、3つに離してみても同じ炎である事に何ら変わりはありませんよね。

三位一体とは、次元の違う3つの聖なる存在の人格(神格?)が統合されてて、完璧な世界の運行を意味しているんです。

だからそこでは父なる神と子の意見が違ったり、子と霊の意志が違ったり、という事もないんですね。
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しかしそれにしても、三位一体って難しい概念ですよね。

<父と子と聖霊>・・・

それって<精神と肉体と霊魂>の事でもありますね。

<未だ生まれざるもの>と<生まれちゃったもの><見えないけれどそこら中に存在するもの>って感じでもあります。

これらの3つがあってこそ、キリスト教の霊的世界が全体的な構図で捉えられるようになるんだそうですよ。

いや〜、奥が深いですね〜

神とは我々の想像を超えたあまりにも大きな存在なので、そんなに簡単に説明出来ないものなのです。

三位一体とは<戦争と平和><愛と憎しみ>など、優しいようでいじわるで、厳しいようでも救いをもたらす複雑な神の側面を、方程式で表現するのにちょうど都合が良かったのかも知れませんね。(笑)


この地球では約2000年程前に、<創造主とキリストと聖霊>とが合体して、ひとつの偉大な真理が生まれました。

それと同じように、我々ひとりひとりの<精神と肉体と霊魂>とが合体すれば、いつか神の真理も理解できる時が来るのかも知れません。

「父と子と聖霊とが合体すると永遠の愛の交わりが生まれて、何か神聖なものが出現するんだよ」

「この世界にはそんな神の恩寵で満ちあふれているんだよ」

キリスト教徒の方々は、三位一体説で多分そんな事を言いたいんじゃないだろうか・・・

私にはそんな風に感じられてしまうのです。

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聖書によると、イエス・キリストは神が受肉した<神のひとり子>だと記されてます。

果たしてイエス・キリストとは神なのか? 

普通の人間だったのか?

それとも神様のお使い的な何かだったんだろうか?

甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの・・・

聖なる夜にはとことんまで三味一体(三位一体)を堪能しましょう。

そして、創造主の想いや計画についてエンドレスに考えてみるというのもオツな過ごし方です。

メリークリスマス!

皆さん、どうか良いクリスマスをお過ごし下さいね。




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by viva1213yumiko | 2014-12-24 02:52 | 季節・行事 | Comments(0)

お点前事始め

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日本人と生まれたからには、何か日本的な趣味のひとつでも持ってみたいものですよね。

「ご趣味は?」と聞かれた時に、「書を少々」とか「日舞かじりました」とか、「盆栽アートにハマってます」とか・・・

上品そうにはにかみながら、そう答えて見たいものです。

常々そんなチャンスがどこかにないかと思ってら、ひょんなはずみで茶道のお点前を習う事になってしまいました。


茶道師範の友人の誘いで茶席に招かれた事はあり、お茶会がどういう雰囲気なのかは知ってました。

しかし客人として茶会に出席する事と、自ら客人にお茶を立てる事との間には、アイガー北壁ほどの大きな壁が立ちはだかります。

茶道には<型>という決まりごとがたくさんあり、聞き慣れない言葉やタブーも多く、美意識満載すぎてハードル高すぎじゃない?

古美術みたいなお道具だってどうにも理解し難いし、第一私、正座が出来なかったじゃない!

キャリア30年以上のF先生は「おもてなしの心さえあれば、お点前なんて誰でも出来ますよ」と精神論が優先です。

しかし私には「足のしびれをどう克服するか?」「茶道具を何で代用するか?」などの、現実的な課題の方が大きいのです。

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                        (裏千家流盆点前)


茶道には長い歴史がありますが、その伝統のあちこちに遊び心もたくさんちりばめられているのです。

春夏秋冬の宴や野山遊びのために、野点や箱盆点前などのピクニックバージョンも発達しました。

現代ではテーブルの上でお点前する、<テーブル茶道>というものもあります。

本当はかなり自由でフレキシブルなものなのです。

そこで私は考えました。

お客様の時「コーヒーにしますか、紅茶にしますか、それともお抹茶立てましょか?」なんてサラリと言えたら格好いいんじゃないかしら?

外国人にアピールすれば、「 OH! ワンダフォー! オ・モ・テ・ナ・シ!」なんて、きっと感激してくれるに違いありません。

2020年オリンピックの時にも役立ちそうです。

かなり不純な動機ですが、私はFさんに詰め寄りました。

「なんちゃって茶道でいいからお点前教えて〜」 
「茶道を一般人にも解放せよ!」

伝統的な茶道の世界では、技は師匠から弟子に口伝で伝わるそうで、パーツパーツのカリキュラム制みたいなものはまず成立しないらしいのです。

しかしF先生は太っ腹だった。

「よろしゅうございます。10回通って頂ければなんちゃってどころか、ちゃんとお薄が立てれるようにして差し上げます。」と言ってくれたではありませんか。

「お薄・・・」

う〜ん素敵! なんてマニアックな響きかしら・・・

このようにして、かなりオリジナルの<チケット制茶道・10回コース>が幕を開けたのでした。


10回の茶道レッスンは友人宅で行われたのですが、そこは普通のお宅なので当然茶室などありません。

なので一番のネックは「どうやって湯を沸かすのか?」という事につきます。

蓋を開けた電気ポットを茶釜に見立てたりする人もいるらしいのですが、今回は皆で頭をひねり、なんとカセットコンロに土鍋を乗せて、それで炉と釜の代わりにしてしまいました。

換気のためにしょっちゅう窓を開けないと危険だけれど、それ以外は何とか無事クリアです。

水こぼしはどんぶりで、蓋置きは小鉢で、水差しはビスケット入れで代用です。

床の間に見立てた場所には、掛軸の代わりに季節の花の手ぬぐいを飾りました。

香炉はアジアン風だし、飾り花はバラやガーベラで洋風だし・・・

かなり強引かも知れませんが、こんな風に手持ちのグッズを集めて<茶道ごっこ>してみると、カフェオレどんぶりで抹茶を飲む日本通の外人さんの気分に浸れてとても新鮮です。

表千家や裏千家の宗家家元が聞いたら腰抜かすかも知れませんけどね。(笑)

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ところでお茶やお花が嫁入り前のお稽古事になったのは、明治以降になってからって知ってましたか?

それより前の時代では、茶道とはお侍さん・お坊さんのもの。

主に男たちがたしなむものだったのです。

小さな密室で膝を割って他者と対面する。

それは主客がひとつに交わる行為であり、嘘偽りの通用しない、心のすべてが見透かされる真剣勝負だからなんです。

だから武士は茶道を好み、積極的にたしなみました。

相手の武将が信頼出来るか、下心を持っていないか、茶席を同じくして知る事が出来るからなんですね。

またお坊さんたちは座禅中、眠気を押さえるため茶を点ててたと言います。

そうなって来ると、お抹茶とは昔の覚醒剤みたいなものだったんでしょうかね?

となると、千利休はドラッグ系アーテイストと言えなくもないですね。(笑)

利休の昔から、茶道と精神論とが切っても切れない間柄なのは、語り継がれる色んなエピソードからも想像されて面白いですよね。

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昔の日本人って、現代の我々よりもずっとっずっと純粋だったと思います。

自然のリズムに逆らわず、仁義礼智を重んじ、日々お天道様に感謝して、シンプルに暮らしていたのでしょう。

日本人の素晴らしい美徳を知るために一服のお茶を点てる。

その行為が今の私には思いのほか役に立っているのです。

慌ただしい毎日だからこそ、自分の純粋な部分とアチューンメントするため、このような時間を大切にしたいものです。




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by viva1213yumiko | 2014-06-10 20:15 | 季節・行事 | Comments(2)

彼岸の先祖供養

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小さい頃に最も怖かったもの。

それは仏壇でした。

陽の射さない陰気な和室で、仏壇に線香を灯してはブツブツと何かを唱える祖母の姿が、とてつもなく怖かったのです。

ローソクの炎が暗く揺れ、辺りに線香の匂いが広がると、黒檀の仏壇の中心にある奇妙な異次元空間に身体ごと吸い込まれ、二度と戻れなくなりそうなそんな恐怖を感じたものです。


無事思春期まで成長すると、その手の年寄りじみた習慣の完全否定が可能となりました。

「いつでもご先祖さんが見守ってるんだよ」 

「だから感謝せにゃ〜ならん」

祖母のそんな言葉も<辛気くさい迷信>と聞く耳持たなくなりました。

まぁそれが健全な青少年の、本来あるべき姿ってもんなのでしょう。

「線香っていい匂いだね」とか、「お経ってなんか落ち着くね」などと言い出す子がいたなら、それは特別な宿命をおびた子供かも知れないので、それなりの道を切り開いてやるべきでしょう。


その後、TVにお坊さんや霊能者が登場し、「先祖供養で幸せになれる」と得々と説明していても、その言葉が心に響く事はありませんでした。

もちろん新興宗教などの、団体教義も鼻でセセラ笑っていました。

私の自我は健全でノーマルな成長を遂げていたのです。


しかし・・・

年の功とは恐ろしいものであります。

人生の折り返し点を過ぎた辺りから、「もしかして先祖供養とは決してバカにならない行為なのではないだろうか?」という風に考えが変わって来たのです。


以前、旅先で知り合った沖縄のユタさんは、「あんたに影響与えんの、それは7代前のご先祖までサァ〜」と仰有っていました。

それを聞いて私は、「ええ~っ!」と思ったものです。

「7代も前ですって?・・・」

仮にひとりの人間が30才で次の世代を産み落とすとして、30年×7代で210年の年月が流れます。

200年以上も前の顔も知らないご先祖様が、私の人生の幸・不幸に影響を与えているという事になるのです。

しかも7世代の霊の影響っていうのは、その間に関わった遠縁の親戚や、一族郎党すべてを含めた<ご先祖様の集団グループ>を意味するらしい。

さらにそれぞれの霊魂ごとに、その恩師やら、友人やら、血の繋がりはないけど特別に縁ある存在がサポートに入っていて、彼らの指導や助言も我々の人生経験に多大な影響力を与えているらしいのです。

ざっと想像しただけでも天文学的数字のスピリッツが自分を囲むこの世界に存在してて、そのご縁とご加護を頂き、我々は今この平成の時代を生きているという事になります。

それを思うと確かに今、この時を生きてる生命の不思議を感じますね。

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しかしご先祖様と言っても当然、皆んなが皆んな心の暖かい良い人ばかりだった訳ではないですよね。

中には迷惑ばかりの、どうしようもない<困ったさん>もいたはずです。

そういう霊魂は自己憐憫や後悔の気持ちが強く、共感してもらえる存在や場所を求めて彷徨っていると言います。

だから自分の気持ちが落ち込んだりすると、似たようなスピリッツを招待してしまい、知らぬ間にピッタリと張り付かれて妙な仲良しさんになってしまいます。

波動共鳴するという奴です。

だからこの世界に存在する、これら無数の目に見えないスピリッツたちを癒し、慰め、昇華させることが供養の本質です。

未成仏霊を安心させてあげることが大切になって来るのです。


普通はここで、かつての私のように「非科学的だ!」「迷信だ!」と始まる訳なんですね。

けれど大事なのはここからで、未成仏霊を供養することで浄化されるのは、逢った事もない困ったご先祖様であると同時に、我々が隠し持つ心の中の厄介な部分でもあるのですよ。ややこしいけど・・・

スピリッツ(霊魂)というのは何者かの想いそのものであり、良いものも悪いものも、チャンスさえあれば物質化しようと待ち構えてる見えないエネルギー群の事です。

だから未成仏霊を供養するとは、我々の心の暗黒面にはびこってる制限のない欲望や、怒り、憎しみ、自己憐憫などを昇華し、奇麗なものに入れ替える作業そのものの事を意味するのです。

すべてのスピリッツが安心して完全に成仏したなら、あなた自身の心配事もすべて消滅し、自分の人生を100%信頼出来るはずです。

つまり「先祖が安心なら自分も安心」

「先祖が豊かなら自分も豊か」

「先祖がハッピーなら自分もハッピー」

あの世とこの世の壁を取っ払い「サービスする、される」という運動力学が成立するのです。

言わば<サービス交換の法則>なんですね。


先祖供養をするという事は、これはもう見えない先祖や縁のある霊たちへ、自分が生かされている事を感謝をする事に尽きると言えますね。

先祖の霊を慰める事は、同時に自分自身の癒しと再生を導く事になるのです。


「ご先祖さんにゃ、感謝せにゃあかん」

結局お祖母さんの言ってた事は嘘ではなかったんですよね。

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供養といっても何も大げさな事をする必要はありません。

先祖霊が安心の境地に行くように思いやり、お線香の一本でも供えて、今ここに生かされている事への感謝を思うだけでいいのです。

お年寄りたちがやってた文化を真似て継承するだけの話しです。

「生かして頂き、感謝します・・・」

「おかげさんで、ありがとさん・・・」

念仏のように繰り返していると、心はホッコリ暖かくなって来ますよね。

人間関係に疲れて疑い深くなってる人も、騙されたと思ってひとりでこっそりやってみて下さい。

優等生的な発言に照れがある人でも、心に念じるだけなのだから恥ずかしくありません。


そうやって自分や家族や周りの人を見つめ直してみると、心のモードが安定し始めます。

他者を思いやる慈悲の心を育てると、なぜかすべてに感謝する心が生まれて来ます。

またすべてに感謝するように日常生活で心がけていると、なぜか慈悲の心が生まれて来る。

すると不思議な事に、生かされている感謝を素直に感じるようになれるものなのです。

相乗効果で自分の幸福指数がどんどんアップするという構造です。

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それぞれの宗教の教義は皆んな違っているし、またそれぞれそれなりの正しさがありますよね。

でも本当の正しい信仰とは「目に見えない何かのお陰だと思って、生かされている事への感謝をする事」それに尽きると思います。


 [心の中に本物の神がいる]


それさえ分かっていれば、心の外に神を求めて宗教集団に集まる必要もなくなりますよね。




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by viva1213yumiko | 2014-03-21 20:04 | 季節・行事 | Comments(0)

花と鼻

日差しに少しずつ春めいた気配を感じる今日この頃です。

早春の花はいったいどこまで咲いているのか、路上観察に出かけてみると・・・


ロウバイ、満開でプンプン香ってました。
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福寿草、健気に咲いてました。
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ああ、春の足音はすぐそこまで、確実にやって来ているのであります。


しかし、私の体調はこの路上観察デー辺りを境にみるみる急降下して、とうとうダウンしてしまいました。

今シーズン、一度も風邪を引いてないのを自慢していたのに、ついに陥落です。

二日間寝込んで、ベッドの回りには見事なティッシュの花びらを咲かすこととなってしまいました。



  
 <鼻セレブ> ティッシュの花も満開で 私も今日だけ <花セレブ>かな   



<花セレブ>と<鼻セレブ>

<花>と<鼻>

同じ「音」ですよね。

日本語の音韻は「音」が先に存在して出来た言葉なので、基本的に同意同義なのです。

だから、この<花>と<鼻>という単語にも同じ意味が込められているって知ってましたか?


漢字が伝わる以前から日本で話されていた本来の日本語、<大和言葉>のルーツはとても古く、縄文時代以前にさかのぼると言われていますが、確かな事は分かっていません。

もともとはアミニズムなどの自然崇拝から来て、大自然や宇宙などに対する<祈り言葉>だと考えられているのだそうです。

だから、大和言葉は「音」をとても大切にするのだそうです。

本来言葉とは「エネルギーの振動」「音のエネルギー」に他なりませんから、「形」よりも「音」の方がより大切なのは自然の理なのです。

大和言葉から繋がる日本語には一音づつ個別の意味があるのが特徴。

きちんと意味のある一音をはっきりと発音することは日本語に呪文のような力を引き寄せることとなるのだそうです。


日本語の「あいうえお」50音には、すべて一音づつに意味があります。

例えば「はな」の「は」は、[放つ・発する・吐く]など大きく広がって出て行くエネルギーのことを表していています。

「はな」の「な」は、[和む・なれる・並ぶ]など調和のエネルギーを発するものを表します。

つまり、「はな」という「音」を大和言葉的に解釈すると、「先端にあって調和のエネルギーを発するもの」と読み解くことが出来るのです。

これが日本語の「花」と「鼻」に共通する隠れた本来の意味なのだそうです。

かぜを引いて何度も何度も鼻をかむのは、身体が本来の調和を取り戻そうと懸命に働いてくれている、まさしくそのものなんですね。


「先端部分で調和のエネルギーを発するもの」・・・

枝の先端で春のエネルギーを表現する「花」と、顔の先端でばい菌エネルギーを排出する「鼻」

そう言われてみると、どこか似たところがあるような気もしてくるから不思議ですね。




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by viva1213yumiko | 2013-02-17 14:40 | 季節・行事 | Comments(0)

初釜入門・後編

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小休憩の<中立>でちょっと一息ついた後、お茶会は<懐石>へと移ります。

正客から順に銘々の膳が手渡しで運ばれ、亭主の「どうぞお箸をお取り上げ下さい」という言葉で会食が始まります。

おめでたい鶴の盃でお酌して頂くと、美しいお造りや口取り・お椀などが順を追って運ばれて来る。

その彩りと繊細さには感動してしまいます。

しかしここにも食事の作法があり、美味しいからといってパクパク食べる訳にはいきません。

箸の上げ下げ、大皿からの取り分け方、そして懐紙の上手な使い方。

<料理を残さない><器を清める><箸を落とす音が終わりの合図>などの決まりごともあります。

ひとつひとつの仕草にこんな意味があるのだと知り、改めて自分の所作を意識せざるを得ません。

これは、普段の食事にも望むべき姿だと思いましたね。

今行っているひとつひとつの行為に意識を合わせ、集中し、没頭し、そのものになる。

見る・聞く・嗅ぐ・触れる・味わうの感覚を、フル回転させ日々の食事をしたなら、毎日が新鮮で、たぶん人生から退屈という文字は消えて無くなってしまうでしょう。

それは幸福への近道とも言えるんじゃないでしょうか。

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そして<懐石>後の<中立>をはさんで、最後の<薄茶>へと突入します。

正客から順に席につくと、<干菓子>が盆に乗って登場しました。

ひょうたんや羽子板など、正月らしい愛らしさの<落雁>です。

サァーッと上品に溶ける<落雁>の余韻を味わいつつ、師匠のお手前を待つのです。

<薄茶>は<茶筅>を動かすことによって空気を取り込み泡を立て、ソフトでまろやかな風味が持ち味のお抹茶なので、さっぱりとした<干菓子>と相性ぴったりです。

<薄茶>は各人に点てられるので、三口半で飲み切ってしまえば良く、初心者でも比較的ハードルが低いのではないでしょうか。

茶碗は自分で取りに出て、飲んで拝見し返すのですが、ひとつひとつの動作のたびに、他の客や亭主に礼を忘れません。

そしてまた、お道具の拝見。

道具はどれもみな繊細な造りをしているので、両手で大事に扱います。

恥ずかしながら、私の無骨な手には<茶杓>など耳かき同然に映ります。

どうにもコツがつかめず、これが一番戸惑いました。

薄茶器の<棗>や<茶杓>について、また<茶碗>の作者や窯元について、正客から質問が繰り返され、亭主はそれに答える。

短い会話には主客の見識や品位がまじまじと出てしまうので、通り一遍の約束事をこなせればそれでいいというものでもありません。

そこには不思議と、人の真実が見え隠れしてしまうのです。


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茶道に何より大切なのは、形式そのものではなく、それを追う過程で雑念が取れて、無念無想になれることだと思うのです。

[自他・美醜・善悪の分別を超えた心境に行き着くこと]なんじゃないだろうかって気がしました。


なんでも「あの人にはお茶がある」という表現があるんだそうです。

それはお点前が出来るかどうかということだけじゃなく、お茶の心・もてなす心を常日頃持っているかどうか、ということなのだそうです。

日常の生活で季節の移ろいに目を向け、他者に心を向け、自分自身にも眼を向けて毎日を過ごすことの積み重ねが、きっとお茶の心を育む道なのだろう思い知らされた次第であります。



貴重な体験をさせて頂き、本当にありがたいことだらけだった、私の初釜入門でありました。



 
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by viva1213yumiko | 2013-01-17 13:13 | 季節・行事 | Comments(0)