カテゴリ:オペラ・バレエ・映画( 33 )

運命に翻弄される人々


台湾に旅行に行った時、京劇を鑑賞するチャンスに恵まれた。


観光客向けの一幕もののプログラムでしたが、孫悟空の冒険活劇や若い男女の恋の駆け引きなど、楽しい芝居を鑑賞させて貰いました。


それは歌舞伎や能の体験で、興奮する外国人と同じ状況なんでしょうね。


京劇特有のあの甲高い音楽や、衣装やアクロバットや演出に終始ドキドキさせられっ放しで、感動と興奮の一夜を過ごすことが出来ました。


中国文化は途轍もなく大きすぎて「よう分からん」と思う方。


そのような方にこそ、<京劇パフォーマンス>はいかがでしょう?


エンターティメントな伝統芸術から中国文化を覗き込む。


それならきっと親しみを持てるに違いありません。

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京劇といえば、そう、チェン・カイコー監督のあの映画、<さらば、我が愛/覇王別姫>です。


この映画は、1920年代から約50年間の激動の時代を生き抜いた京劇役者の愛憎劇なのですが、いろんな意味で深く心をえぐられる映画なんですよね。


3時間近い大作ですが、終始飽きずに間違いなく物語にのめり込んでしまう。


ある意味<鬼気迫る傑作>です。


死ぬまでに一度は見ておくべき映画と言えるでしょう。



人は運命から逃げられない。


逃げても運命は追いかけて来る。


人の運命とは時の流れの中、花びらのように浮き沈みせざるを得ない。


と、そんな風に思えて来て、鑑賞後にボー然と虚脱感が残るかも知れません。


だから、意思の力でガンガン能力を発揮したいと願う<自己啓発系>の方や、開運スポットで他力本願して満足してる<ゆるふわスピ系>の方はむしろ見ない方が良いかも知れません。


なぜならこのお話の根底には「人はそれぞれの運命に責任を取らなければならない」っていう、厳し~いテーマが流れているからです。


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女郎の女が育てられなくなった我が子を、捨て子同然に京劇の養成所に預けて行くところからこの物語は始まります。


厳しい訓練と虐待の中で、孤児の少年は女形として育てられ、時に慰み者にされ、男とも女とも言えないいびつなアイデンティティーを形成する。


家族のいない孤児にとっては、子供の頃から一緒に育ち何かと助けてくれる兄貴分は、唯一頼れる存在だったのだろう。


その義兄弟の役者二人の運命と、京劇の栄華衰退とを、中国の史実に乗せて綴るスケールの大きなお話しです。

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二人のヒット演目は「覇王別姫」


三国志で活躍する英雄<覇王>の末路と、最後まで運命を共にした<虞妃>の悲劇です。


悲劇の役を演じてそれがはまり役になると、役のキャラクターそのものが役者個人に憑依して来て、悲劇に取り憑かれてしまうってことあるのでしょうか?


役者というのはつくづく因果な職業ですね。


悲劇の恋人役を演じるうちに、いつしか本当に彼を愛するようになってしまう。


男と女の垣根を超えたトランスジェンダー。


いつの間にか彼は、芝居と現実の垣根さえも超えてしまっているんですね。

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母に捨てられ、家族を知らず、男でもなく女でもない。


愛する人には女房がいて、愛したくても愛せない。


生きる術は京劇だけだから、芝居を辞めたくても辞められない。


舞台の上でしかいのちが輝けない<仮面の人生>


そんな運命しか残されてないとしたら・・・


さあ、あなたならどうする? 


一体どうするでしょうか?

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それでも京劇界のトップスターだった頃はまだ良いのです。


清朝末期から国民党→日本軍→国民党→共産党と目紛しく政権が代わり、その度に京劇の運命は翻弄されます。


そして文化大革命。


自己批判を強要され、芸術家や文化人は徹底的に破壊され尽くす。


伝統芸術とは元来お金持ちや権力者の庇護があって成り立つもの。


戦争が起こったなら、政変が覆されたなら、芸術なんて木っ端微塵に破壊されるのです。


運命が激しく流転している時、人は誰もそれに逆らえません。


三国志の英雄<覇王>ですら定められた運命には逆らえなかった。


それと全く同じようにです。

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それでも人は生きなければならない。


結局、人はそれぞれの運命に責任を取らなければならないんですね。


人生は人により千差万別です。


映画のように、時代に、偏見に、権力に翻弄される過酷な人生もあるでしょう。


穏やかで平凡に生きる者もいる。


けれど、人には必ずいつか<人生の収支決算>をしなければならない時がやって来る。


誰にも必ずその時が訪れるのです。


だから、人生で起こる悲劇・喜劇の総決算から何を教訓とすべきか?


あくまでも決めるのはあなた自身ということなんですね。


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 どんなに愛しても愛し足りない


 どんなに憎んでも憎みきれない



映画の宣伝コピーにはこのように書いてありました。



愛したいのに愛が叶わない。


かといって離れたくても離れられない運命。


人間界にはそんな不思議な愛憎関係が確かに存在しますよね。


「今まさにそれに翻弄されている真っ最中です!」って人も、決して少なくないはずです。



人間の営みの中には、時に心をえぐり取られる程の厳しさ・残酷さが潜んでいます。


そのようなものに遭遇すると、人間の浅はかな考えでは計り知ることの叶わない、この<人生のカラクリ>を思わずにはいられません。


神様の計画はいつも極秘裏に実行されて行く。


いつだって我々は、そこにある意味を、後になって何とか解釈するだけ。



人生の経験の中から一体何を学び取るべきか?


我々が生きることの意義とは、多分それをつかみ出すことにあるのかも知れませんね。


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by viva1213yumiko | 2017-06-12 19:35 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

女体に宿る奇跡の花

[女の体を宿主にして、鮮やかに花を咲かす植物がある]


あなたはそんな奇跡みたいな話しを信じますか?


以前観たファンタジー映画の、不思議な花のお話しをしましょう。


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映画<シャニダールの花>より  



突然変異のこの花は、女性の身体を母体にして鮮やかな花を咲かそうとします。


もちろんそれはごく稀な現象で、花を宿す女性を探すのはとても困難でした。


しかし、花の花弁から摂取する成分には新薬開発の貴重な成分が含まれていた。


なので製薬会社は研究機関を設け、情報を隠蔽して厳重な管理下に置いている。


研究協力費と称した億単位の金と引き換えに、各地から<肉体に花を宿す女たち>が集められました。


そして温室みたいなクリーンな施設で<花の開花を待つ女たち>は、ただただ静かに暮らすのです。


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女性の身体になぜこの花が宿るのか、研究者たちもまだ解明出来ません。


けれどそこには心理的要因が絡んでいました。


どうやら本人の意思が花の開花に影響を与えるらしいのです。


心が緊張すると花は咲かない。


心の安定が花の開花を促すのです。


母体心理と植物との調和?


それはシンクロニシティとか、微妙なバイオリズムにも左右されてるようでした。


花の開花とはそれらが絡み合って起きる、ホントに稀な奇跡現象だったのです。


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開花時期が近づくと大概の女たちは感覚異常に見舞われます。


人体に寄生するのはある種狂った花なのです。


だから誰もが少しおかしくなる。


女たちは心に大きな闇を持っていて、その穴を埋めるものを捜そうと常に揺れてるんですね。


だから花は彼女たちのそんな「心の絵だ」とも言えるのです。


ある意味、花を咲かすことで彼女たちの存在理由が証明されるという訳です。


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花を咲かせることができない女は研究所から退去しなければならなりません。


入所時にそういう約束で契約書にサインする。


花を摘む摘出手術はとても危険で、人体から切除する際には大きな負担がかかるのです。


法外な金額の研究協力費はそのリスクのせいだったんですね。


でも、だからと言って切除せず咲かせたままにしておくのも危険です。


満開を過ぎそのまま放置したら、花そのものから危険物質が出て来るからです。


花を摘むのは危険。


けれど咲かせ続けるのはもっと危険という訳です。


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<女体に宿る奇跡の花>


これが映画の概要なんですが、さてこの話しの教訓とは一体何なのでしょう?


う~ん、難しいですよね。


女体に宿る奇跡の花・・・


私にはこの花は、女の体にこびりつく根深い<業>みたいに思えてならないんですよねぇ〜



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女にはある種の<業>があるんです。


女は<いのちを産み><いのちを育む>大切な役割を担っている。


何ものにも代えがたいその喜びを味わう代わりに、女には支払うべき代償があったのです。



女性性とは受容性を意味します。


言い変えるなら、それは「与えられた運命を全て受け入れること」なのかも知れません。


与えられ生かされる我々の<いのち>


その運命の荒波を、黙々と忍耐強く受け入れ、育んで行かなければならない。


人生にどのような困難が待っていようとそれを受け入れ受容する。


まるで聖母マリアのようにです。


それが女性の美徳、母性の美徳だとされて来ました。


受容性とは<母性の結実><その完成形>だったのです。



しかし、それは忍耐と我慢の連続ですよね。


分かり合えない人間関係に対する諦め。


後悔しても二度と取り戻せない過去。


守るものが多いほど犠牲になっていく自分自身。


受容性の美徳の影で、そのような想いや感情は置き去りにされたままです。


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花には雄しべと雌しべがあります。


それはつまり「花には男と女が同時に存在してる」ってこと。


さらに言い換えるとそれは「成長して繁殖する要素をあらかじめ自分の中に持ってる」ってことになりませんか?



それに比べて人間の母性とは他者との関係性に身を委ねざるを得ません。


夫との繋がり・子供との繋がり・親との繋がり・世間様との繋がり。


女性は誰もが関係性の中に飛び込んで行かざるを得ませんよね。


女・妻・母・母の娘・姉・妹・・・


女性性とは人間関係をつなぐ<結びのエネルギー>だからです。

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女性たちがこの世界に関係性の花を咲かすのはとても美しいことです。


でもあなたの花は本当にそれだけ?


あなたの心が今枯れそうになっているとしたら、思い切ってその花を摘み、新しい花を咲かせる方法を考えねばなりません。


恐れる必要はありません。


本当の魂の花は決して枯れない。


そして決して汚されることもないんです。


花は共存と繁栄のシンボルです。


<女体に寄生する奇跡の花>は、あなたを輝かすことが出来る神秘の贈り物だったのです。



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追伸:

自分自身の魂の花を咲かせたいと願う方のために開花支援を行っております。


興味のある方はどうぞご覧下さい。


ブロッサム・ワークス





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by viva1213yumiko | 2017-04-12 18:45 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

ジィジとバァバのグラン・パ・ド・ドゥ

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「もう参っちゃうよ〜 今度の日曜、バレエの発表会なんだよぅ〜」


友人は娘の発表会を目前にし、まるで自分が出場するかのように緊張している。


その様子がいかにも可笑しかったので私は必死で笑いを堪えていた。


バレエの発表会。


それは幸せファミリーを実感できる最高の場面です。


友人のそのドギマギした感情さえ、むしろ人生の醍醐味じゃないかと思えるんですけどねぇ〜


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子ネズミみたいな小さいバレリーナでも、発表会ともなれば衣装を身につけ舞台に立つ。


カサカサするチュチュの手触り。


くすぐったいような舞台袖の緊張感。  


パパもママも一枚でも多く写真を残そうとカメラをスタンバイしている。


晴れ舞台を両親が見守るこの日は、甘酸っぱい記憶の宝庫です。


そのメモリーは魂の奥に刻印され、忘れがたい印象を宿し、その子の生涯に大きな影響を与えることでしょう。



そんなバレエ発表会に潜入することになっちゃいました。


そして改めて気づかされました。


「家族って似た者同士が集合する小さな組織である」ってことに・・・


それはとても何気ないけど、しかし極めて大事なこと。


バレエの発表会とは<家族>を客観的に観察するのに最適の場だったんですね。


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いや~、家族って奴はホント、不思議なもんですね〜


しみじみそう思っちゃいました。


ほら運命の赤い糸ってあるでしょ?


アレ、アレ・・・


家族って、もうまるっきりアレそのものなんです。


親と子の間にはゼッタイ、目には見えないヒモが存在してますね。


そしてそのヒモ、お互いに絡みついてるんですよ〜(怖)


それはまるで同じ品種・同じ規格の柿を選んで、ヒモでくくって干し柿にするようなものです。(ヘンな例えで申し訳ない)


干し柿ファミリーは一本のヒモにくくりつけられ、軒下に吊るされる運命共同体です。


軒下にぶら下がる干し柿たちの宿命の赤いヒモ。


私、バレエ発表会という華やかな祝祭の場面で、見えないはずのこのヒモの存在を感じてしまったんです。


しかもそれは親子関係だけの問題じゃありません。


両親双方の家系からジィジとバァバも参入し、宿命の赤いヒモはさらに複雑な様相を見せる。


それはまるで覗いちゃいけないファミリー・アフェアを覗き見るようなもの。


バレエ発表会は家族のドラマを垣間見れる、これとない絶好のチャンスだったのです。


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それにしても親子って良く似るものですね〜


子供はそのまんま親のコピーです。


遺伝によってDNAを継承してるのだから当たり前と言えば当たり前ですが、これはもう完全な<コピー商品>です。


顔かたち、体格・体型が似てるのはもちろんです。


でもその上さらに思考パターンまで継承されちゃう様は、何と言うか空恐ろしいくらいです。


両方の両親から半分ずつ受け継いだDNA。


ひとりひとりの人間に個性や特徴があるのはDNAの成せる技ですね。


そう思って自分という存在を改めて考えるととても不思議です。


自分という人間は目に見えず得体の知れないこのDNAの、単なる宿主に過ぎないってことなの?


そう考えると何か怖いような、哀しいような、情けないような気分になります。




「そういうところ、お父さんに(お母さんに)そっくりね!」


誰でも一度くらいそんな風に言われたことあるんじゃないかしら?


ふとした表情や仕草、歩き方や喋り方に、遺伝の赤い血は表現されてます。


私は自分の足の指の形が父親と全く同じ形だということに、父親が死んで行く時に初めて気づきました。


「電気ショックで蘇生するのでお嬢さん足を抑えてて下さい。」


医師にそう言われ父の足首をつかんだ時、父親から受け継いだ赤いDNAの存在をハッキリと感じました。


「この人の足は私と全くおんなじ形だ!」


死に行く人を目の前に、私はDNAについて考えていた。


寄りにも寄って父親の死に際に遺伝について考えたくはなかったが、気づきはその時突然やって来たのです。


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遺伝によって子孫に個体性が継承されるのと同じように、驚くべきことに<愛のパターン>も親から子へ受け継がれるのです。


愛し方ひとつにも実は家族それぞれに独自のパターンがあります。


それが親から子へと受け継がれて行く。


これは遺伝というより<愛の学習パターン>と言って良いでしょう。


おおかたの人間は親から愛を学びます。


国語・算数・理科・社会を学ぶように、愛し方を親から学んでいるんですね。


だから親から愛し方を習わなかった子供は、当然ながら<愛を知らない人>となる。


そのような人には誰かが親代わりになって愛を教えければなりません。


つまりひとりの人間が健全に成長するには<愛を伝える伝道師>が必ず必要なんですね。


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そこでまた、話しを発表会へと戻しましょう。


ここにジィジとバァバがいるとします。


その二人は成熟した踊りの名手でとても上手に<愛のダンス>を踊れるとする。


バレエで言うなら最大の見せ場<グラン・パ・ド・ドゥ>ってとこですね。


その<パ・ド・ドゥ>が純粋で美しいものなら(つまり愛のあるものなら)、それは次世代の生命力を育む最強の揺りかごとなるでしょう。


そしてジィジとバァバの世代から、ひとつ下のパパ・ママの世代へと、DNAを経由して愛は確実に継承される。


愛のある赤い血の家系には、愛の概念を受け取れる感受性が育つんですね。


その赤いDNAに<愛を知る人><愛を表現する人>というデータが書き込まれるのです。


そのような子供は愛に対する感性が発達しいる。


だから愛を習得するスピードも早いのです。


ほんの少しレッスンするだけで、すぐに<愛のパ・ド・ドゥ>が踊れるようになる。


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植物を育てるために我々がするべきことって、とてもシンプルです。


光と水を適切に与えれば良い。


たったそれだけのことで植物は自ら勝手に成長して行きます。


人間もそれと同じようにたったひとつの力に導かれ自ら成長して行く。


それは<愛の力>なのです。


親から子へと本当の意味で手渡せられるのは、お金や財産といった目に映るものではないのです。


目には見えない<愛の力>を、子供たちにたっぷり与えれば良い。


<愛の力>を最後まで、見失わぬよう導けば良い。


そうすれば<愛の力>そのものが、その子を咲かせ実らせてくれる。


教える者が誰もなくとも、<愛のパ・ド・ドゥ>を踊り出す。


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by viva1213yumiko | 2017-02-21 01:13 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

兄と妹のタブーの話し

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1968年制作、今村昌平監督の<神々の深き欲望>

この映画をまだ観たことがないのなら、是非一度観ることをお勧めしたいです。

ただしこの映画を観るには相当のエネルギーが必要です。

それなりの覚悟を決めて観るようにして下さいね。

精神状態が不安定な時や、病中・病後もお勧め出来ないので、その点も十分にご承知おき頂きたい。


離島のシャーマニズムと、兄妹の近親相姦をテーマにしたこの作品。

何しろオドロオドロしいんです。

タブーを破って村八分にされてる家族と、神話の伝統をそのまま受け継いで生活してる島民たち。

そこに水質調査のため都会から測量技師がやって来て、島に近代化の波が起こるかと思われる。

しかし、むしろ技師は不思議と村社会の因習の中に呑み込まれて行く。

近親相姦で村八分の兄と妹は、船で逃避行を試みるが、結局追っ手の島民たちに殺されてしまう。

そして島には、またひとつ伝説だけが残される。

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この映画は、島の古い伝承を直接オジイ・オバアから聞くような、超ド級のプリミティブ・ムービーです。

現代人の理屈や論理など一切通用しない<根源的なエネルギー>が全編を覆っていて、何だか息苦しいくらいです。

原始的で、土俗的で、混沌としていて、それでいて<何か決定的なもの>がそこには潜んでるようにも思われて・・・

ようするに、頭の中がグッチャグチャになっちゃうんです。


それもそのはずです。

現代文明から隔絶したこの島は、シャーマニスティックな因習と神話とに支配されたまま。

でもその雰囲気は、人類全員が共通に持つ、どこか懐かしい記憶に近いものがあるんですね。

映画を観て思考停止になっちゃうのは、細胞だけが知りうる何か<根深い力>が目覚めるような、そんな感覚になるからなのでしょう。

それは、粗野な野生の暴力的エネルギーでもあります。

だからね。

ほら、言った通りに・・・

必ず覚悟を決めて観て下さいよね。


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近親者同士が結ばれて、全く新たなものを創造する。

神話では近親相姦は極めて神聖な扱いをされてます。

神話や伝説の中には、この類いの兄妹婚の話しはたくさん出て来るんですねぇ。


エジプト神話ではオシリスとイシスの兄妹が、近親相姦によってホルスをもうけた。

ゲルマン神話には双子の兄妹神フレイとフレイア。

ギリシア神話ではゼウスとヘラは姉弟の関係。

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古事記では、イザナギとイザナミの兄妹神が<国産み・神産み>を行ったとあります。

しかも不具の子ヒルコを産んで海に流したとまで記されている。

沖縄や中国、東南アジアのエリアには「殆どの人が死に絶えるような大洪水の後に、生き残った兄妹が子供を作り、そこから人類が再生していく」といったタイプの<洪水型兄妹始祖神話>が広く伝承されてるんだそうですよ。


こうして改めて見直すと、兄妹婚は神話の中でも重大な役割がありますね。

「とてつもなくクリエイティブなものを生み出す」という、そんな<霊的意義>を表現しているように思えてなりません。

事実古代の王家では、近親婚で濃い血を受け継ぐと呪力が高まると思われていたようです。
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近親婚の法律的な解釈は地域によってまちまちですが、倫理的にはどこの世界でも殆どタブー視されてます。

しかし霊的・神話的には<神聖な兄と妹カップルの神様>が活躍する。

だからなのでしょう、文学作品やフィクションの世界でも相思相愛の兄妹は甘美なもの、と扱われやすい。

「妹、萌え〜♡」って、なっちゃってます。

人間の深層心理って実に不思議なものですね。


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それはなぜでしょう?

なぜ相思相愛の兄妹には、どこか詩的な響きがあるのでしょうか?


それはね・・・

同族間の愛っていうのは、無意識に相手の中に自己愛を注入しちゃうからなんだそうですよ。

もちろんこれは皆、無意識のレベルで起こる心の働きです。

でもそこには<投影された自己愛>、つまりある種のナルシシズムみたいなものが存在している。


それから人間の根源的な欲望の中に「自分の生まれる前まで遡って自分のルーツを肌で感じたい」という衝動があり、それが近親者への愛に変わるって、そんな説も聞いた事あります。

普通の恋愛でも「初めて逢った時からどこか懐かしい感じがした」と、相手をそう感じる人が多いですよね。

それは魂のルーツを肌で味わう感覚を、直感で知覚するからなんじゃないでしょうか?

実際多くの男女が似たような育ち方をし、似たような趣味を持つ人と結婚する傾向にある。

遺伝的に自分と全くかけ離れたタイプより、多少類似性がある個体を好むものなのです。

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血縁関係とは切っても切れない永遠の関係です。

だからそこに<永遠の恋人>の夢を投影しちゃうのです。

それが近親者への愛へと変換されやすい。

人間の感性の中には最初から「自分の出自を聖化したい」という願望があるんじゃないか、と思わないではいられません。

人の心って脆く危うく不可解で、一筋縄ではいかないですね〜


日本でも明治時代の頃までは「男女の双子は、前世で一緒になれなかった心中者の生まれ変わりだ」と、忌み嫌われることが多かったそうです。

不憫だということで離ればなれに育てられ、大人になってそっと結婚させた、なんてケースも本当にあったと言う。(驚)

しかし私だって、片割れの自分がもう一人存在すると知ったら、きっと狂気じみた想いで探そうとするに違いありません。

最も純粋で悲劇性を帯びたもの、それが相思相愛の兄妹関係に現われるんでしょうね。

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追伸:
10代の頃は兄という存在に甘美な想いを抱いていたので、兄を持つ友人たちが羨ましかった。

しかし兄を持つ大概の友人は「ダサい!・臭い!・ウザい!」と兄貴連中をボロクソに言うばかり。

禁断の兄妹愛は、幻想の花園に咲くからこそ妖しく美しいのかも知れませんね。

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by viva1213yumiko | 2016-05-23 23:36 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

<マトリックス>心の囚われ人

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映画<マトリックス>は、コンピューターにプラグインされ、仮想空間で生かされていた主人公が、「真実に目覚め、心の囚われを解き放ち、眠っていた能力に目覚める」というそんなお話しでした。

映画の中で賢者モーフィアスは、主人公ネオに向かってこう言います。

「現実とは何だ? 君が感じるもの、匂いを嗅ぐことの出来るもの、味わい見ることが出来るもの、それを現実というなら、現実とは脳で解釈された単なる電気信号に過ぎない」

おっと~

これって、まるで般若心経そのものみたいじゃないですか。

「色即是空・空即是色」のあれ、あれですよ。


モーフィアスのアドバイスは仏の教えに良く似ています。

とてつもなくクールでかっこいい!

あまりにクール過ぎて、何だかもの哀しさを感じる程です。

自分が感じるもの、そして味わい見ることが出来るもの、それらが全て「単なる電気信号に過ぎない」ですって?

そうすると、昨夜聞いたバイオリンコンチェルトも、バレンタインに食べた高級トリュフも、皆んなただの電気信号だったと言うのでありましょうか?

そんなぁ~

そんなのってないですよぉ。

この世に存在する、色とりどりの美しいものたち。

脳はそれらを単なる信号として解釈してるなんて・・・

何だかビミョ~な気持ちになりますね。

野に咲く花々も、木漏れ日のきらめきも、寄せては返す波音も、皆んな脳が送るシグナルだったとは、余りにも切ない話しじゃありませんか。

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我々が現実と呼ぶもの。

それは脳の信号によって作り出される思い込みの世界。

実体があるようで、実体のない世界です。

そしてその幻想のような世界を、ほとんどの人間は<囚われた心>を抱えたまま生きる。

真実とは異なるものを後生大事にしっかり握りしめ、決して手放さずに生きてるんですね。


古代ギリシャの哲学者プラトンは、その様子を洞窟の中の囚人に例えました。

人間は洞窟に縛り付けられ、後ろを振り向くことが出来ない囚人と同じだ、と言ったのです。

唯一、松明の明かりで壁にぼんやり映る影を見ることだけが出来る。

だから外に明るい太陽の光があるとは信じようともせず、映った影を真実と思い込んでしまう。

それが我々人間の姿である、とプラトンはそう考えたのです。

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現実とは何なのでしょう?

現実とはあなたが現実だと信じているもの、そのもののことなんですね。

私たちはひとりひとり、それぞれの心の宇宙に住んでいます。

現実の世界とは、それがネガティブであれポジティブであれ、我々の内面の状態を投影する影のようなもの。

つまり私たちの信念そのものが、私たちの経験を決定づけるプログラムそのものです。

一度心が何かを確信してしまうと、それが物理的現実になって行く。

そんな風にして、この世界は成り立ってるんですね。

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「人間の脳はコンピューターシステムに似ている」と良く言われます。

思考という信号は、コンピューターと同じように脳内で情報処理されるんです。


仮に主人公ネオのように、電脳空間にプラグインしてしまったとしましょう。

あなたは肉体をプログラムに拘束され、脳をプログラムで支配されている。

それを現実と信じ込んでいる。

そうなると、そのプログラム自体ハッピーなものなら、人生は明るく楽しいと感じるでしょう。

けれどプログラムがアンハッピーなら、人生とは苦しく辛いものだと感じてしまいます。


我々は自分が信じる信念に見合う物事を、人生上で経験する宿命にあります。

つまり我々は、信念というプログラムの指示に従って生きる生き物なんですね。

信念が現実のパターンを生み出してる訳です。

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だからこそ、そこから<心を解き放つこと>

それが最も大切なこととなります。


美女トリニティーは「あなたが生きてるこの世界はコンピューターによって作られた仮想現実だ」とネオに伝えます。

そして「勇気を持ってそこから飛び出し、真実を見つめなさい」と教える。

<心を解き放つ>とはそういうことを指してるんですね。


You are the prison of your mind,

(君は君の心の囚人である)


人間の心を支配しているのはマトリックスそのものなのです。

これが現実だと思い込んでる自分を少しだけ疑ってみる。

すると色んなことが見えて来るのかも知れませんね。

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by viva1213yumiko | 2016-02-24 11:49 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

サロメの天城越え

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1893年に書かれたオスカー・ワイルドの戯曲<サロメ>

ラストで洗礼者ヨハネの生首に口づけする背徳的シーンで有名ですね。

このお語しは聖書に記された<ヘロディアスの娘>のエピソードからインスパイアされた、あくまでも作家の創作物語であります。

しかし、このサロメとおぼしき女性は歴史上に存在してたらしく、古代ユダヤ王家の系図からその人物を特定することが出来るのだそうです。

洗礼者ヨハネの首を求めた、過激なパンク娘<サロメ姫>

今となっては真偽のほどは分かりませんが、聖書に記さずにはいられないほどの欲望渦巻くスキャンダラスな事件が、当時の王室で実際に起こったのは確かなようです。

史実とストーリーとが融合される形で、後世の人々に長く伝えられて行ったのでしょう。



あらすじはこんな感じです。

ユダヤのヘロデ王は自分の兄である前王を殺し、妃を奪って権力の座についた。

しかし妃の連れ子である王女サロメによこしまな目を向けている。

その視線に絶え切れなくなったサロメは宴の席を外れ、預言者ヨカナーンが幽閉されている井戸へと向かう。

預言者は不吉な言葉をわめき散らし王家を呪い、妃から嫌がられている。

預言者との接触は王に禁じられているのだが、サロメは色仕掛けで見張り番をそそのかし、その姿を見てしまう。

そして恋してしまうのだが、ヨカナーンの方は彼女の忌まわしい生い立ちをなじるばかり。

まるで相手にされていない。

誘惑を拒絶されたサロメは、余興の舞いの褒美として預言者の首を求めるのである。

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自分のことを見向きもせず、拒み続けた預言者ヨハナンを屈服させるため、首を切り落してでも口づけする。

プライドをケチョンケチョンに潰された、高貴な女の欲望には恐ろしいものがありますね。

このサロメという女性(正確には母と娘の血の系譜)は、ある意味<イッちゃった女>の元型とも言えます。

愛と権力とを完全にはき違えています。

思い通りにならない恋の情念が、執念となり、怨念になって行くのです。

銀の皿に乗せて運ばれる、愛する男の生首。

「自分のことを見たならば、ヨカナーンも自分を愛したはずだ」と、罵詈雑言で本心をあらわにし、その生首に口づけることで彼女なりに恋を成就させる。

耽美さが際立つ、この物語のクライマックス部分です。

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この手のスキャンダルって他人様の噂話しとして聞く分には、とても楽しくてワクワク興奮しちゃいますよね。

愛に関するゴシップって千差万別・多種多様。

なのにどんな話しにも、人間としてどこかで共感出来ちゃうのが面白いです。


そしてしみじみ思うのですが、激しい愛っていうのは行き着くところまで行ちゃうと、急に手のひら返したように憎しみにシフトしてしまうんですね。

ジェットコースターみたいなものです。

上がったものは同じだけ急降下する。

愛の物理学にはある種の法則性があるのでしょうか?

それを解析出来たならノーベル賞ものの大発見かも知れませんね。


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   ♬隠しきれない 移り香が

    いつしかあなたに 浸みついた

    誰かにとられる くらいなら

    あなたを 殺していいですか♬  


               <天城越え>



サロメの首切り口づけ事件って、何だかあの<阿部定事件>を彷彿とさせます。

サロメにしても阿部定にしても、愛の傾向性に同じ匂いを感じるのです。

愛する男を絞め殺しイチモツを切り取って持ち去った阿部定と、愛する男との口づけのため首を切り取らせたサロメ。

片やフィクション、片やノンフィクションではありますが、どちらも愛の究極の果てまでを覗き込んだ、ある意味とても勇気ある女性たちです。

彼女らの動機は至ってシンプル。

「愛しいひとを自分の思う通りにしたい」

「相手を独り占めにするためには殺すしかない」

そんな一方的な情念のモチベーションです。

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私は兼ねてから本当の意味で残酷なのは男じゃなくて、むしろ女なのじゃないかと思っているのです。

これは女の中の、特に母性の影響力が大きいのでしょう。

肉体とは女の身体から生まれるもの。

母性とは命を生み出す力と同時に、命を破壊する力をも持ち合わせている。

だから女にとってみれば愛するものの肉体など、いとも簡単に自分と同化してしまうんですね。


母性が愛の対象と同一化してしまうと、破壊願望もより強力になります。

逮捕された阿部定は、取調室で「好きな男のモノを好くのは当たり前です」と供述したといいます。

その感覚なんかは、母親が赤ちゃんの<おてて>や<おしり>を愛おしいと思う感じ、「食べちゃいたい」と思う感じに近いですよね。

母性にはそういう側面があるのです。

だから母性の暗黒面って、恐ろしく残酷さを含んでるんです。


いやぁ~、女ってホントに怖いものですね。(笑)

女を知れば知るほど、愛することの奥深さを学ぶことになるのかも知れません。

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しかしまぁ、いずれにしてもサロメの愛はエゴイズムの愛の極致であって、それは本当の意味の愛とは違います。

だから長続きはせず、最終的に悲劇で終わる。

結局のところ「涙で終わる愛」というのは、所詮「人間界の我欲まみれのちっぽけな愛」に過ぎないとも言えます。

だから、ほら、聖人たちは皆こう教えてます。

「汝の敵を愛せよ」ってね・・・


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オペラ<サロメ>では、愛を知り混乱したサロメがこのように歌うシーンがあります。
  

   ♬愛することの不思議は

    死ぬことの不思議より大きい♬


「確かにその通りだなぁ〜」と思ってしまいます。

<愛の奇跡>とは<死の奇跡>より、確かに不可思議な奇跡です。


しかし聞くところによると、死後の世界に移行しても更に続けて<愛の学び>が用意されてるらしいですよ。

あちらの世界にも現世と同じように課題があって、自分だけのオリジナルテーマに取り汲まなければならないらしいのです。

そして物語は続きます。

<終わりのない物語>です。

ですから皆さんもせいぜい死ぬ時を楽しみにしておきましょう。

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この世における<究極の愛>って一体どういうものなのでしょう?

人によりそれぞれでしょうが、あなたの愛はどんな形してますか?

愛する人の生首に、口づけしたいような愛ですか?

愛する人の男性自身を懐に忍ばせ、逃避行するよな愛ですか?

心の奥の魔性の女が、<天城越え>望んでいませんか?



   ♬何があっても もういいの

    くらくら燃える 火をくぐり

    あなたと越えたい 天城越え♬




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by viva1213yumiko | 2015-12-15 20:21 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

浮気心の処方せん

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ズバリ聞きましょう。

正直な話し、あなたには浮気願望がありますか?

某婚活応援サイトの浮気願望調査(2009年)によると、既婚男性のうちの75%、女性では42%が、配偶者以外の異性との浮気願望を持っているのだそうです。

内訳は以下の通り。

既婚男性の浮気願望度
   「ある、実行した」33%
   「ある、チャンスなし」28%    
   「ある、勇気なし」14%
   「全くない」25%

既婚女性の浮気願望度
   「ある、実行した」30%
   「ある、チャンスなし」4%
   「ある、勇気なし」8%
   「全くない」58%。

浮気願望が「ある」としたのは、男性75% 女性42% なので、数字からみるとやはり男の方が浮気願望が旺盛な印象です。

しかし浮気願望を持つ者のうち、実際に浮気を「実行」した人の比率は女性の方が圧倒的に多く、必ずしも男の方が浮気性ではないと分かります。

男と女、どっちの方が浮気偏差値が高いのでしょうか?

男と女、どっちの方がより罪深いのか?

これって古今東西の物語に繰り返し登場して来る、男と女の永遠のテーマでもあるんですよね。
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オペレッタ<こうもり>は浮気願望のある夫と、その妻とのドタバタを描いたコメディーです。

女性に目がない新興成金の主人公が、羽目を外そうと貴族の館の夜会に行き、変装した妻とは気づかず仮面姿の伯爵夫人を口説く。

妻の方はと言えば、口説かれたふりをして夫の懐中時計を奪い取り、浮気の動かぬ証拠をつかむ。

しかし実はこれ、夫をギャフンと懲らしめるため、こうもり博士とでっち上げたひと芝居だったのです。


ウィンナ・ワルツの華麗な調べが全編にあふれ、この<こうもり>という作品は「オペレッタの王様」と呼ばれています。

本場ウィーンでは年末年始の定番レパートリーという事なので、言うなれば紅白歌合戦みたいなもんですかねぇ?

だから祝祭的な要素がメインで、このお話しにはほとんど哲学らしきものがありません。

浮気性の夫を懲らしめるため、仮面舞踏会でひと芝居うつ妻。

身分を明かさず、上手く夫に誘惑され「してやったり!」

けれど結局芝居もバレて、夫婦は和解し許し合う。

そして「すべてはシャンパンのせい」ってことにしちゃいましょう。 

♬チャンチャン

このように何とも軽~い結末です。

このお話しの中にあえて人生の教訓らしきものを見つけるとしたら、それはきっとこんな感じなんじゃないかと思うのですが・・・いかがなモンでしょう?



[浮気な夫の心を引き止めたいのなら、いつでも自分自身であると同時に、別人のように振る舞う必要がある]



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一説によると、不倫の恋が魅力的なのは、人間の<五感への刺激>が最大限に誘発されるからなんだそうです。

人は平穏な家庭生活をつつがなく手に入れても、それが当たり前になってしまうと色褪せた世界となり、感覚世界がしぼんでしまうのです。

そこで人は世界を色鮮やかにするため<五感への刺激>を求めます。

視覚・聴覚・味覚・臭覚・身体感覚の五つの感覚機能を使い、<快楽>という名の感性を育てられるからです。

それが誘惑の禁断の木の実なら、なおさら甘く美味しく感じられるもの。

つまり浮気心とは、肉体的安楽や快感への執着ゆえに巻き起こる、悲しい生理現象とも言えるのであります。


以前「不倫は文化である」と発言して一世を風靡した芸能人がいましたが、不倫ってのは始めるのは簡単だけど終らせるのは大変な労力がいるものです。(あくまでも想像です)

神聖な夫婦愛の表現をないがしろにし、性エネルギーをいたずらに弄ぶのは、想像以上にリスキーな事なんだそうですよ。

なにせ、あのモーゼの十戒にだって「姦淫してはならぬ」ってあるではありませんか。
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そもそも神が人間に性本能を与えたもうたのは「子孫を作る事」「神聖な夫婦愛を表現する事」の他にもうひとつ、「性エネルギーを精神力として昇華する事」があるんだそうです。

それは性エネルギーを有効活用して「霊的な想念や英知をあらわす創造エネルギーに変換させる」という、人類に課した大きな目的成就のためらしいのです。

だからいにしえより「性欲は制御し、性の力は神聖な目的に使うべし」とされてます。

大事なエネルギーを不倫で消耗し、使い果たすだけで終わるなんて、とても勿体ない事なんだそうですよ。(笑)


「神の似姿に作られた子供を作る事」

「夫婦が互いに相手の中に神聖さを見いだす純粋な魂の愛を表現する事」

それと「性エネルギーを偉大な精神力に昇華させ、創作活動や創造的事業に変換して社会に貢献する事」

性の創造エネルギーは、この3つに行きつくべきなんだそうですよ。

だから神聖な結婚の目的を離れて性欲に溺れる事は、精神的にも肉体的にも有害だと、どこの宗教も教えてます。


性欲を制御する事・・・

どうやらそれは、人類の意識進化のひとつのステップなのかも知れませんねぇ〜

どうにもこうにも「浮気の虫が治まらない」とお困りのあなた。

そんな時にはどうか「人類の意識進化に貢献する!」のだと、決意を新たにしてみてはどうでしょうか。(笑)

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困った事に、放っておけばすぐに芽生えて来るのが<浮気心>というもの。

そこにしっかり釘を刺しておくために、夫婦間で互いの魅力を再発見する努力も必要になって来ます。



[浮気心を引き止めたいのなら、いつでも自分自身であると同時に、別人のように振る舞う必要がある]



いっそオペレッタ<こうもり>のように、お互いを誘惑するような毎日を過ごしてみるってのはどうでしょう?

笑い方・手の動かし方・誘惑の仕方・恋の手管・・・

倦怠期の夫が恋人のように、妻が愛人のように振る舞ってみるのです。(笑)


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いつか未来には、浮気の特効薬が本当に発見される日が来るのかも知れません。

しかし今のところは、夫婦愛に対するお互いのちょっとした創意工夫が、間違いなく一番の処方せんになるみたいですね。




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by viva1213yumiko | 2015-05-19 15:05 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

色情症の唄

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モーツァルトのオペラ<ドン・ジョバンニ>

オペラにしてはちょっと異質の、アンチヒーローの物語です。

舞台は17世紀のスペイン、女とあれば誰でも口説き落とし、そして裏切る、伝説のドン・ファン(伊語でドン・ジョバンニ)のお話しですね。

プレイボーイの代名詞、ドン・ファン・テノーリオはとんでもない悪人です。

女たらしの傲慢な貴族で、自称「愛の運び手」

ひたすら女を追いかけて、快楽だけに生きる男。

権力を傘に従者をこき使い、口先で女を騙し、強姦もすれば殺人も犯す。

極悪非道の色事師です。


ジョバンニの従者レポレッロは、たった3日で捨てられた、かつての妻エルヴィーラのため、懐から帳面を取り出します。

ドン・ジョバンニの毒牙にかかった過去の女たちの名簿を見せて、アリア<カタログの唄>で彼女を慰めるのです。

   
   奥様、これが旦那の女のカタログでございます。

   私が作ったものですがね。 見て下さい。

   イタリアで640人、ドイツで231人、

   フランス100人、トルコ91人、

   ここスペインでは1,000と3人

   金髪・栗色・亜麻色、

   太いの・細いの・年増の女

   金持ちだろうが、醜かろうが、

   スカートさえはいていれば、

   誰でもいいんです。

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ちょっとちょっとちょっと・・・

これって、あり得ないカタログじゃない?(笑)

しかし皆さん、驚くなかれ。

実際この世には<色情症>という、れっきとした病気が存在しているのです。


Wikipediaにはこのように記されています。

<色情症>とは、性欲が以上な亢進状態になる症状である。

相手から根拠もなく愛されていると錯覚したり主張する妄想観念型や、性機能障害による性欲の抑制欠如が原因と考えられる異常性欲型などがある。

異常性欲型は、男性ならサチリアジス、女性ならニンフォマニアと呼ばれる。

また男性色情症には、不特定多数の相手と性的快楽を追求しようとするカサノヴァ型と、特定の相手にこだわり、その過程に快楽を追求するドン・ファン型とがある。
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色情問題をこのように西洋医学的に追求するのもよろしいのですが、古来より我が国には、妙にドロドロしていて、それ故になおさら魅力的な<色情症>へのアプローチがありました。

いわゆる<色情霊><色情因縁>という奴です。


色情霊とは性的な恨み・想いを残したまま霊魂がさまよい、女性や男性を目に見えない状態でダメージを与えることを指します。

仮にあなたが性的執着のある霊、色情因縁を持つ霊に憑依されたとしましょう。

すると、恋愛が上手くいかなくなったり、性的な悪夢を頻繁に見たり、不倫や離婚を繰り返したり、性的欲求が抑えられなかったり、誰とでも性行為が出来たりと、かなり厄介な問題が起こりがちになります。

憑依には死霊の場合と生霊の場合があるのですが、まあ結局のところ、色情霊は性欲を発散するためにターゲットの身体を利用したい訳なのです。

色情霊に犯された人の体験談では、胸や背中に触られた感覚に襲われ、身体にキスマークが残ったり、爪を立てたような引っ掻き傷が残ったり、本当に性交渉を持ったような感覚に襲われたりするらしい。

そこに快感を感じ、何度も招き入れ、霊と性交渉を持つと、生気を吸い取られ寿命が縮まります。

色欲に強い執着を持つと、このような色情霊に憑かれやすくなるんですね。

好きな人と結ばれることを執念のように強く望んで亡くなった人や、逆に異性に縁のなかった人、禁欲的な生活を強いられてた人などは「死後自ら色情霊となってさまよう」なんて言われます。

また生きている人間の想念も、想いが遂げられないことが怨念へと変わり、生霊になってさまようと言います。

つまり「色情霊はそこかしこに存在している」ってことになりますね。

色情霊に狙われがちな人は、無意識のうちに性的なことを汚らわしい、もしくは面倒だなどと、否定的な見方をしている場合も多いらしい。

色情霊のバイブレーションは、性に対するネガティブな想念を嗅ぎ付けてしまうようなのです。

不規則な生活、昼夜逆転などの怠惰な状態もつけ込まれやすい。

他人に必要以上に同情的な人も危険です。

心を強く持ち、心身の浄化に励み、精神力を整えることが大切なんですね。

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人を愛することは、何ものにも代え難い素晴らしいことです。

けれどそこにエゴや執着があるうちは、多分それは本物の愛とは言えないのでしょうね。

過剰な想いや執着を手放して、相手が自由に生きる権利、選択する権利を認めなければなりません。

執着を握りしめ、決して手放さそうとしなかったら、結局は自分を地獄へ追い込むことになってしまうでしょう。

オペラ<ドン・ジョバンニ>のラストがそうだったようにね。


我々はドン・ファンから様々なことを学べますね。

エゴや執着を超えて、自分の心に従うことの大切さを、別のドン・ファンはこう教えてくれてます。





   いかなる道もひとつの道にすぎない

   心に従う限り、道を中断してもさげすむ必要はない

   あらゆる道を慎重によく見ることだ

   必要とあらば何回でもやってみるがいい

   そして自分に、ただ自分ひとりにつぎのように尋ねてみるのだ

   この道に心はあるかと

   心があればいい道だし

   なければ、その道をいく必要はない

             カルロス・カスタネダ 「ドン・ファンの教え」




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by viva1213yumiko | 2015-02-26 12:32 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

4D映画体験記

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あなたは4D映画というものをご存知だろうか?

IMAX・3D映画に続き、最新の体感型映画システムの事を4Dと呼ぶんです。

座席が映画のシーンに合わせ、前後左右上下に反応する<モーション席>になっていて、テーマパークのアトラクション同様の臨場感を体験出来る、新しいシステムなんだそうです。

席が動くだけでなく、風・香り・エアー・ミスト・バブル・スモーク・フラッシュと、色々な体感エフェクトが映像に合わせ飛び出して来るんだそうで、何とも好奇心が刺激されて来ます。


「進撃4Dで、共に立体起動を体感しましょうよ!」

毎回最新刊が出るたびに貸して貰ってる、進撃友だちのMさんから熱い感じのメールが届いた。

「それって、例の最新式の奴よね〜! <進撃の巨人>? 凄い! 面白そう! 行く行く~!」

新しもの好き同士がトントン拍子、仲良く連れ立って<進撃の巨人 4DX版>を観賞する事になってしまいました。

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「上映中の飲食は出来ませんのでご了承下さい」と、受付の係員から声をかけられました。

荷物やコートもロッカーを利用するよう促されるのです。

初っぱなから普通の映画館とは違った雰囲気で、ワクワク感が高まります。

椅子が前後左右に大きく動くのでスペースが必要なのだろう、一席当りの空間は大きく取られていて、座席もかなりゆったりした感じ。

「身長100㌢以下のお子さん・妊婦さん・お年寄り・お身体の具合の悪い方はご遠慮願います」と、先程から何度も注意書きテロップが流れている。

係員の座席チェックの後、4Dのテスト映像でいきなりカーチェイス・シーンが流れたのだが、これには度肝を抜かれてしまいました。

スピン・カーブ・ジャンプ・急ブレーキ・・・

これはもう、本物の車に乗ってる動きだ!

「これは、酔う酔う! 気持ち悪くなる~っ!」

なるほど・・・これでは飲食禁止も当然です。

絶対にあちこちポップコーンが飛び散るでしょう。

モーションのたびに座席がガッタンガッタン揺れて椅子から落ちそうになり、肘掛けに掴まり思わず呟きました。

「ちょっ・・・テスト映像でこれっ? これが2時間も・・・大丈夫なのか?」

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<進撃の巨人>本編は調査兵団が森を駆け抜けるシーンからスタートです。

風が吹く。 雨が降る。 馬が走る。

とにかく派手にやってくれるのです!

風や水が顔を濡らし、ダダダダ・・・と乗馬の衝撃が伝わり・・・体感エフェクト度MAXです!

兵士が立体起動のアンカーを打てば、パシュと頬の横に何かが横切る。

巨人が動いたり何かを破壊すると座席に衝撃が伝わる。

建物が倒壊すればスモークが巻き上る。

誰かが壁に打ち突けられたり暴力のシーンでは、椅子の背中からボールのようなものがパンチして来る。

それも大層なパンチ力で、そのたびに身構えてしまうので、緊張しないではいられない。

空を見上げるシーンでは椅子が斜め上を向き、屋根から地面を見下ろせば斜め下を向く。

大砲を打つとフラッシュが光り、爆風が飛んで来る。

巨人が人を喰らうと血しぶきがピュッと顔にかかる。

結構な量の水が飛んで来る。 

下手したら化粧崩しかねないほどに、です。


ハッキリ言って、4D映画は思ってた以上の興奮を与えてくれました。

過去のチープなアクション映画も4DXで体感し直したら、案外名作に生まれ変わってしまうかも知れません。

これからの映画とは「観るものでなく体感するもの」、そんな風に常識がひっくり返る可能性さえ感じさせます。


映画も後半になってくると4Dの衝撃にも慣れて、立体起動の爽快感を味わうゆとりが生まれます。

登場人物と一体になって、屋根から屋根へ飛び移る感覚を楽しめるようになれるのです。

しかし、なぜなんでしょう?

何だか涙が溢れてしようがない。

ここまで散々身体を揺さぶられて、身体感覚がマヒしてしまったからなのか、登場人物の何気ない台詞や、何気ない表情のひとつひとつに心が動揺しやすくなってるんです。

人類の存続をかけて戦わざるを得ない少年少女たちの、その運命や鬼気迫る心情に、妙に感情移入してしまうのだ。

「たかがアニメに何を大袈裟な」と、笑わないで欲しいです。

身体を拘束されて散々揺さぶられ、そして巨人の世界を体験させられると、疑似体験を通り越し、ちょっとした変性意識になってしまうのです。

通常の感覚とはひと味違う感性が芽生えて来る。

身体を揺さぶられ心が刺激され、むしろ友愛や絆を感じるスイッチが入って、微細な愛の感覚がキャッチ出来るのです。

ある種のショック療法で、人の心は目覚めるのかも知れません。

繊細な感覚が目覚め、ハートもオープンになって、恐ろしい巨人の本当の姿を垣間見れるような気がします。

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巨人とは、一体何を意味するのでしょう?

実は巨人とは、我々の心に住む<恐怖>や<恐れ>そのものかも知れませんね。

<恐れ>や<疑い>や<嫉妬>や<偏見>という目に見えない敵が、真実の巨人の正体です。

兵士たちは壁の外の巨人と戦う訳ですが、我々だって同じように見えない敵と日々戦わなければなりません。

それは人間の心に存在してる目に見えないネガティブな怪物との戦いなのです。

何時だって駆逐すべきは、心に住む黒い敵です。

結局私たちは、必死で巨人と戦って日々成長を続けて行く、そういう宿命なんですね。

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2時間椅子に拘束されて、髪も乱れ水分補給も出来ず、それでも立体起動を味わって、変性意識を体感したいと仰有る方々には、是非とも<進撃の巨人 4DX版>おススメしたいですね。




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by viva1213yumiko | 2014-12-16 00:55 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

オペラ<アイナダマール>

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スペインの国民的詩人ロルカを題材にした、一風変わったオペラを観賞した。

オペラを超えたオペラとの呼び声が高い、<アイナダマール>です。

「再演されるかどうか分からないから、見逃すと一生見れない可能性あるわよ」

出演した友人Sは、役作りのトレーニングで筋肉痛の身体を摩りながら、こっそりそう教えてくれました。


その意見はもっともです。

なぜってこの作品、通常の歌劇とは違い、かなり前衛がかってるんですよね。

イスラム礼拝っぽいコーラスや、死を嘆き悲しむ泣き女の合唱団。

馬のひずめや銃声の音もそのままシンセ音に使われているし、フラメンコギターや手拍子、アフリカや中南米の打楽器も加わり、かなり粗野で土っぽい印象だ。

<歌劇>にしては、かなり<過激>・・・


しかし、現代音楽だから小難しいって感じでもないんですね。

フラメンコやアラブ風の音楽がちりばめられて、クラッシックの音楽編成を破壊した<フォークオペラ>、<ワールドミュージックオペラ>と言えそうです。

歌唱・演劇・美術・映像・衣装・ダンス・パフォーマンス・民族音楽・オーケストラ・音響技術・・・

すべての面で異色のアイデアに満ちていて、ホントに<オペラを超えた21世紀のオペラ>の風情です

コアなファン層から「これは凄い!」と賞賛され、世界80ヶ国以上で上演されている話題の作品なのです。

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物語はスペイン内戦で銃殺された詩人ロルカの運命を題材にしていて、彼とゆかりある人物も絡み、<死と隣り合わせの魂同士の交流>みたいな情熱的で神秘的な主題が見え隠れしてます。

それは「ひとりの人間の魂は時代を経て、他の人間の魂へと伝播し得るのか?」

「死者の魂と対話することが出来るのか?」

といった感じのテーマなんですよね。


19世紀グラナダに実在しジャンヌ・ダルクのように処刑された自由主義の女性、マリアナ・ピネーダ。

そして彼女の半生を戯曲にした、フェデリコ・ガルシア・ロルカ。

マリアナ・ピネーダを演じた伝説の大女優、マルガリータ・シルグ。

この三者の心の叫びというか、自由のため流した血の匂いが、現実とは違う別のリアリティーの中で時代を超えて交流するのです。
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現実世界と死後の世界との霊的交流は可能なのでしょうか?

19世紀グラナダの悲劇のヒロインの魂が、1930年代の詩人の心に大きな影響を与え、数奇な運命へと導く。

ひとりの人間の生き様が、後の時代の誰かの人生に作用を及ぼすなんて・・・

そんな事が本当にあるのでしょうか?     


人間は大昔から、死者の魂との交流に憧れを抱いていました。

多くの人間が、死はすべての終わりではないと直感的に感じていたからです。

大地と繋がったシャーマンのような人々は、死者とのコミュニケーションでその魂を代弁して語る事ができます。

日本の口寄せでは恐山の<いたこ>が有名ですよね。

死者の魂に近づける人間は様々な情念を聞き取って、その痛み、哀しみを受け止める。

<いたこ>はそれを語り部のように伝え、スペインの歌い手はそれを唄にして伝えているのです。

このオペラが「オペラを超えたオペラ」と言われるのも、土着の人間の生々しいパッションが直接身体に伝わるからなのでしょう。

マリアナ・ピネーダやロルカの無念さに、まるで憑依されるような、不思議な感覚に包まれます。
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アンダルシアの人々はカンテという唄で情念を表現しますが、これがまたコブシが聞いてて、日本の民謡に通じるものがあるんですよね。

フラメンコのギターも、考えてみると津軽三味線と似たスピリッツです。

アンダルシアの大地と東北の魂のあいだには、何か共通するものがあるのかも知れません。

スペイン人と日本人のDNAの中に、目に見えない不思議な共感性を感じずにはいられませんね。



<アイナダマール>とはグラナダ郊外に実際ある地名で、アラビア語で<涙の泉>という意味があるのだそうです。

1936年8月19日、その泉の場所で自らの墓穴を掘らされ、銃殺されたロルカ。

その時、遺体を埋葬する者もいなかったそうですよ。

しかし作品だけは死ぬこともなく、長い眠りにつきました。

独裁政権が終わる頃には、アンダルシアが生んだ国民的詩人としてロルカの名は再び浮上して来ます。

そして21世紀の今、我々はこうしてオペラ作品を通してロルカの魂の甦りを目撃するのです。


魂の営みには、始まりもなければ終わりもありません。

後に続く人々を巻き込み、運命の輪がゆっくりと回り続けるだけなのです。


「やっぱり魂って永遠不滅なのかも知れないなぁ~」

観賞後、私はそう信じざるを得ない気分になり、高揚した心で劇場を後にしたのでした。

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  あらゆる国では死はひとつの終わりです。           

  死がやって来ると幕が引かれるのです。

  でもスペインではそうではありません。

  スペインでは幕が上がるのです。

           フェデリコ・ガルシア・ロルカ




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by viva1213yumiko | 2014-11-20 14:12 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)