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亀卜(きぼく)

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平安時代の日本には、陰陽師の阿部晴明みたいな人たちが占った占いより、さらに一段尊い占いがあったのだそうです。

晴明の占いとその占いとどっちを取るかというと、天皇は「こっちを取る」と決まりになっていた占術。

それが亀卜(きぼく)なのです。


実はこれ、今でもちゃんと現存する占いで、平成天皇が即位した時にも亀卜をしたという噂があるんですよね。

いにしえより国家の重大事には必ず用いられた、由緒正しい占いが密かに残っていたなんて・・・

占い好きには興味深いお話しであります。


中国伝来の亀甲占いは、すでに弥生時代あたりには朝鮮を経て日本に伝わっていたようで、占いの痕跡が遺跡から数多く発見されています。

古代人にとって亀は、龍や虎、鳳凰と共に霊獣として崇められ、焼いた亀の甲羅に天意があらわれると考えられていたようです。

だから亀卜とは、神のお告げを伺う宗教的な祭儀であって、「いい加減な気持ちでこれをやると罰が当たるぞ」といった類いのものなのです。
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我が国で盛んに行われるようになったのは6〜7世紀頃。

奈良時代から平安時代には、亀卜は宮中で盛んに行われるようになりました。

実はこの亀卜、とても格式の高い占術で、それ以降しばらくは日本で相当強い力を保持していたようなのです。


当時の律令制には、神祇官と陰陽寮という専門部署が設けられていました。

神祇官は宮廷祭祇や神事を、陰陽寮は陰陽道、天文・暦などを、それぞれ専門に司っていたのです。

占法も神祇官は亀卜、陰陽寮は易筮と六壬式占(りくじんちょくせん)を用いていて、両者に重なり合う部分はなかった。

担当省庁がしっかり分かれていたって事ですね。


宮廷祭祇担当の神祇官として、卜部(うらべ)と言われる専属占い師が20人ほど置かれ、亀卜をしていたんだそうです。

ちなみに陰陽寮の管轄は、陰陽五行説や天体の運行、暦の解釈を担当する立派な学問集団で、現代の文部科学省みたいな感じです。

いずれにしても占い師を高級官僚として登用し、重要な省庁として公に位置づけていたのだから、日本もなかなか粋な国家でした。


卜部(うらべ)はウミガメの産地である対馬と壱岐、伊豆の三ヶ所に配置され、天皇の即位や病気に関する事とか、政治・経済含め国家の行く末を導いていたという。

しかしその技法は、あくまでも秘事、口伝なので、全容は明らかにされていないのです。

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卜部たちは卜庭神(うらにわのかみ)を迎えて卜問い(うらどい)するのだが、その前に七日間の斎忌(さいき)に服さねばならない。

その後、祭壇の前で祝詞を唱え木製の棒を焼き、あらかじめ切れ込みをいれておいた亀の甲羅に押し付ける。

するとその熱で甲羅にヒビが入る。

このヒビ割れの形で吉凶を占う。 

といったもののようなのです。


神事に関する占いも多く、大嘗祭や斎宮祭の時、その時期や人選、天候などを占って来たらしい。

神のご託宣を仰ぐ、立派な宗教儀式だったみたいです。

もっとも記録にはその多くが「吉」と記されているという事なので、あくまでも形式的な儀式だった可能性もあります。

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今も皇室の神道行事には、一般国民が知るよしもない複雑なものがたくさんあって、皇族方は日々大変な努力を重ねられていると聞きます。

もしかしたら夜中の奥の院に身分の高い方々が集まって、密かに亀の甲羅を焼いて国勢を案じてる、なんて話しもあり得なくないかも知れないですよねぇ。

メガロポリス東京のど真ん中で、古代からの儀式が続いているとしたら・・・

想像してみると、かなりシュールな光景です。


卜部(うらべ)の亀卜(きぼく)。

いっそインターネットか何かで中継してくれるといいなぁ〜、なんて思っています。



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追伸
下関には亀山八幡宮の名にちなみ、縁起をかついだ<亀の甲羅せんべい>なるものがあるという。

甲羅模様のこのせんべいをかじって、その割れ目によって吉凶を占うってのはどうでしょう?

きっと亀卜の基礎トレーニングになるんじゃないかしら?




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by viva1213yumiko | 2013-09-28 21:38 | 人生・霊性 | Comments(0)

ファム・ファタル

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ファム・ファタルとは、男を惑わす宿命の女の事を指します。

男と運命的な出逢いをし、出逢った事によって男の運命をまったく変えてしまうような数奇な存在の女。

男を快楽の園へと導き、そして手放し破滅させる魔性の女の事ですね。


雰囲気がどこか謎めいていて、男がまだ知らぬ未知の世界へと誘ってくれるようなそんな存在。

憧れと怖れの入り交じる、感情の深いレベルから手招きされるような、抗しがたい魂の衝動。

ファム・ファタルとは男の運命を決める、ある意味不吉な女でもあるのです。


この、男にとって<極上の悪夢>のヒロイン像は、多くの芸術家たちにインスピレーションを授けたようで、オペラ・バレエ・芝居・小説でたくさん主題として扱われています。

特に19世紀末の欧州では、世紀末芸術家たちが作成した妖婦のイメージが発信源となり、広く一般に行き渡り流行したといいます。

[長くたらした髪・ミツロウのような肌・血のように赤い唇・とろんとした瞳]

こんな感じのファッションや化粧法が大流行したんだそうです。


これらの世紀末ファッションは、既にこの時点で完成の域に達していたのか、秘密めいたデカダンな意匠として現代に至るまで通用しています。

週末の原宿辺りでは、今日でも容易く観察する事が出来ます。


<カルメン> <サロメ> <マノン>

オペラでもバレエでも人気演目の中には、ファム・ファタルが繰り返し登場して来ます。

しかし物語を深読みしても、どうしても理解出来ない事があるんですよね。

それは、「なぜ男は悪女に惹かれるのか?」という点なのです。

本日はそこら辺に注目してみたいと思います。

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[ファム・ファタル : 破滅すると分かっていながら、男が恋にのめり込んで行かざるを得ないような魔性の魅力を持った女]   ラルース大辞典





一説によると、すべての少年は大人に成長するある段階で、一度は悪女タイプのファム・ファタルに惹かれるのだそうです。

破滅しそうなほど命取りの悪女のイメージ。

それが男性の心の成長に、なぜ必要だと言うのでしょうか?


例えば<カルメン>です。

聖職者志望だったドン・ホセを、誘惑して骨抜きにし、痴話げんかを繰り返し、盗みを働かせ、前科者に貶めて、結局殺人者にまで堕落させる。

もし自分がドン・ホセの身内だったなら、あんな性悪女とは一刻も早く切れさせたいですよね。
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考えてみれば生に対し空虚感・倦怠感を持ち、享楽的傾向のカルメンと、素朴な田舎者ドン・ホセとでは、最初から接点のない組み合わせじゃありませんか?

全然釣り合いが取れてませんよね。

しかし運命とは皮肉なものです。

運命が送り届けて来たのは、ドン・ホセを不吉に振り回す魔性の女。

彼が最も怖れ、そして憧れてもいる悪のイメージを、具現化する女性だったんですから・・・

カルメンの一体どこに、ドン・ホセは惹かれたのでしょうか?


ユング心理学では、男の心にあるすべての女性的傾向が人格化されたものをアニマと呼んで、男性の心の成長に多大な影響を与えていると定義しています。

言うなればアニマとは、男の中の隠された女性性の事なんですよね。

通常なら理知的・論理的な左脳思考で物事を解釈する男性の心に、渾然としたムードのようなものがムクムク涌き上る時があるのだそうです。

その不可解な情動こそが、非合理的なものへの感受性を研ぎすまし、直感力を育み、愛する能力を目覚めさせると言われています。


純朴で母親思いのドン・ホセの心は、実は表向きとは違い、束縛を解き放ち自由に生きたいという欲求ではち切れんばかりに膨らんでいたのかも知れません。

ドン・ホセのアニマは、潔い生き方をするカルメンというアウトサイダーに簡単に投影されてしまいました。

本当は彼自身が何より潔く生きたがっているのだが、家庭の事情もありそう簡単には行かず、自分を抑えている。

だからこそ望んでも果たせそうにない自分の夢を、まるで代弁して生きてるようなカルメンに、憧れ魅了され執着してしまうのです。

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実は誰の心の中にも、束縛を説き放ちたいという自由への欲求があります。

だから「自由か、死か!」というアウトサイダーに憧れる気持ちがある。

誰の心にも、カルメンのように<我を忘れるくらい熱く燃えてみたい欲求>が眠っているのです。

その欲求に無自覚なまま異性と運命的な出会いをすると、とてつもなく激しく、身も心も焼き尽すほど危険な恋愛へと踏み込む可能性が潜んでいます。

そして恋という名の天国と地獄を、のぞき見る幸福を味わう羽目に陥るのです。

恋とはやはり魔物です。

うっかり近ずいて大怪我しないよう、ご用心ご用心。


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追伸
あなたがカルメンを目指していても、ファム・ファタルとはあくまで周りの人間が評価する言葉。

「私ってファム・ファタルなの」と自分で名乗ったらそれで一巻の終わりになるので、くれぐれも気をつけて誘惑してみましょう。




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by viva1213yumiko | 2013-09-24 22:16 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

サマッラの約束

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ある召使いがバクダッドの市場で買い物をしていると、不意に死神に出くわしてしまい、震え上がりました。

死神は突き刺すような目で鋭く睨んで、召使いを釘づけにしました。

怖じ気づいた召使いは急いで主人の元に戻り、事情を説明し、そして「すぐにバクダッドを発ち、日が暮れる前にサマッラに着きたいので馬をお借りしたい」と願いました。

主人は承諾したので、召使いは馬を駆り、急ぎサマッラに発ったのでした。

その後すぐ主人は市場に出かけ、まだ人ごみに立っていた死神を見つけました。

主人は勇気を出して死神と向かい合い「なぜ今朝召使いを脅したのか?」と訪ねました。

すると死神は「違う、ここで会って驚いたのだ」と答えます。

「予定では今夜サマッラで会うはずだったのだが・・・」

                      スーフィー詩人  ルーミー


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ルーミーのこの寓話は、人の運命の皮肉な側面を表しています。

死神から逃げ出したその場所に、まさに死神も行く計画をしていたとは・・・

どう考えても召使いの運命は、死の予兆を道連れにしているとしか思えません。

死神との遭遇は、最初から決定されていた事なのでしょうか?

それともただの偶然なのでしょうか?



人が現時点で行う様々な選択は、現在や未来を決定して行きます。

[食べ物・飲み物・服装・書物・友人・会話・趣味嗜好]

毎日の小さな選択が積み重なって・・・

[進学・就職・結婚・離婚・自己実現]

人生のレールは徐々に敷かれて行くのです。

日々の選択の要因が、人の人生やキャラクターを決定して行くのです。


しかし現在・過去・未来のすべてが、宇宙がスッポリ収まる聖なる入れ物の中に存在しているとしたらどうでしょう。

私たちが日常目にしている世界よりももっと深いレベル、あるいは高次の世界というものが存在し、それがあらゆる現象を我々の現実世界に働きかけているとしたら?

日常世界の経験とは、より深い真実からのメッセージという事になりませんか?

もしかすると上位の世界の不可知の力は、我々人間を操っているのかも知れません。

神話が教えているように、人生の困難や試練は、神々の気まぐれが起こすのでしょうか?

運命の女神たちの紡ぐ糸で、我々の運命は始めから決まってるのでしょうか?


私は高次の存在ではないので、この召使いの宿命が何を意味してるのかさっぱり解りません。

しかし私に今考えられるのは・・・

「召使いが市場で死神と出会った時、彼の主人がしたように死神と正面から向かい合い、死の恐れを克服していたら、彼の運命は違ったものになったのではないか?」 という事なのです。


召使いは死を必要以上に怖れていました。

だからこそ市場で死神に出くわすような状況を、自ら無意識に生み出してしまったとは考えられませんか?

彼に死を怖れる気持ちがなかったら、市場に死神がいたとは、きっと気付く事すらなかったでしょう。

召使いは死に焦点を合わせる事で、むしろ死神と遭遇する羽目になってしまったのです。

一方、彼の主人はそれほど死を怖がってはいなかった。


いや、きっと怖れはあったのでしょう。

ですが勇気を出して、あえてその恐怖と向き合いました。

その結果、死神は思ったほど怖い存在ではないと分かったのです。

こちらの問いかけにも答えてくれて、結構フランクな奴だったりするのです。

その時点で、主人は死の怖れを克服したと言えるのではないでしょうか。

心の闇と良い関係を結んだからです。
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[あなたが抵抗するものが持続する]

世界とは本当に神話のようなものです。

私たちの深い心の信念が原因となり、今の自分の環境は作られているのです。

あなたの心はそれ自身が本当に愛してるもの、怖れてるものを、ただ黙って引き寄せているだけです。

だから人生の出来事に偶然はないのです。




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by viva1213yumiko | 2013-09-10 12:54 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

ちゃぶ台と親父

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先日、粗大ごみの収集で昔懐かしいちゃぶ台を見かけ、何だかやけに感激してしまいました。

ちゃぶ台・・・

嘘みたいにコンパクトでちっぽけな、折りたたみテーブルの事です。


言葉遣いやら食事の作法やら、今よりもずっとずっとしつけに厳しかった時代。

どこの子だくさんの家庭でも、このちっぽけな丸い食卓で、肩を寄せ合うように食事していました。

喧嘩したり、宿題したり、ジャレ合ったり・・・

あらゆる家族の営みのを、ちゃぶ台は静かに見守ってまいりました。

裸電球の下でじっと裁縫する母、じっと晩酌する父も、ちゃぶ台はすべてお見通しだったのだと思うと、何かちょっとぐっと来るものがあります。


ちゃぶ台は明治時代の終わり頃から、一家団欒の風景の中に現われて来たと言われます。

それ以前は、江戸時代から続いた銘々膳での食事が主流でした。

庶民の生活でも武家の身分制度をならい、家長から順に上座から下座へ正座して並び、作法も厳しく、会話も禁じられ、食事は一家団欒というより家の秩序を示す場、しつけの場であったようです。

しかし時代が下り西洋文化の浸透によって、日本人も同一食卓を囲むように変わったのだそうです。

「家族の食事は、同時に同一食卓で皆同一のものを食さねばならない」といったデモクラシーの風潮が生まれて来たからです。

ひとつの食卓を皆んなで囲む西洋文化と、座って食べるという日本文化の混合が和洋折衷のちゃぶ台を生み出しました。

家族皆んなで楽しく会話しながら食事する、明るいお茶の間のイメージはここから生まれたのです。

一家団欒の民主主義は、<茶の間・茶箪笥・ちゃぶ台>の3点セットで完成したというあんばいです。
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サザエさんでもちびまる子ちゃんでも、家族のコミュニケーションといえば食卓のシーン。

小津映画や寅さんシリーズでも、家族は必ずちゃぶ台を囲みます。

そして泣いたり、笑ったり、すねてみたり・・・

ちゃぶ台のある風景って、日本の家族の原風景ですよね。

私自身もかなり小さい頃、ちゃぶ台でご飯を食べてた記憶があります。

丸いちゃぶ台には人間の上下関係が比較的少ないし、急な訪問客が増えても詰めればすぐ食卓に入れるフレキシブルさがあります。

狭い家でも、パタンと足を折り畳めばすぐに布団を敷くことが出来て、日本的で良く出来た家具でした。


そして何より大きいのは、家族皆んなが畳に座り、低い目線で向き合えるってこと。

ダイニングテーブルとは違った不思議な空気感を生み出すんですよね。

「腰を落ち着けて、腹を割って話そう」なんて言ったりしますが、じっくりと相手と対話したい時、床に座るってのはいいみたいですね。

ちゃぶ台でご飯を食べると距離が近いので、家族の様子が手に取るように分かってしまうのも面白いところです。

言葉にするよりも早く相手のことが良く分かり、人との間に読み取るべき空気を素早く察知する能力に長けて来ます。

昨今のように互いにモバイルいじりながらご飯してたら、なかなか身につかない能力ですよね。

だから時には、「あ~あ、今日のお父さんは何だか機嫌が悪いなぁ~。イチャモン出る前に早いとこ食べちゃっとこうっと」ってことにもなるんですね。

茶の間ってコミュニケーション距離が近くて、しかも濃厚にクロスする場じゃないですか・・・

そのせいか普段無口な親父さんが、何かの加減で急に怒り出すのも、それは必ずやちゃぶ台の辺りです。

星一徹といい寺内貫太郎といい、頑固親父との口論は最後に必ずちゃぶ台がひっくり返され、ある種のカタルシスで幕を閉じるのです。
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家で一番威張っている寡黙で不器用な親父像は、何よりもこのシーンに象徴されていますよね。

<ちゃぶ台と親父>は日本人のDNAに刷り込まれた、れっきとした記号です。

実は本当はとっても気の弱い親父族は、ちゃぶ台をひっくり返すことによって威厳を保ち、きっとバランスを取っていたのでしょう。

それだけに父親の悲哀って奴を、家族の誰より察知してたのは、この小さなちゃぶ台そのものだったのかも知れませんね。


今や時代はすっかり変わり、この手の大袈裟で滑稽な家族劇さえ、ささやかな幸福の夢の象徴みたいに人々の記憶に生きているだけです。

ちゃぶ台は、過ぎ去った時代を懐かしむ<郷愁のオマージュ>となってしまったのです。




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by viva1213yumiko | 2013-09-04 21:58 | 衣・食・住 | Comments(0)