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初詣のあれこれ

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初詣のお参りとは、去年一年を無事に過ごせたことに感謝し、新しい一年の幸福と健康を新たな気持ちで祈る行事のこと。


日頃神仏のことなどこれっぽっちも意識しない人でも「お正月くらい初詣に行こうかな?」「じゃないとバチ当たりかな?」なんて思うものです。


正月って結構ヒマだし、家でグータラするのもいい加減飽きるし、家族との会話も特にないし・・・


だから必然的に「初詣でも行くか」「屋台で何か食べるとするか」


と、こうなります。


多くの人が三が日に初詣するその本当の理由は、屋台が出ていたり、お神酒や甘酒が振舞われたりするから。


正月用の<イベント戦略>のなせる業ですよね。


ま、すべての聖なる儀式は、巧みに非日常を演出した行為だとも言えます。


イベント結構! エンタメ結構!


スピリチュアルはあくまでも楽しくなくっちゃね。


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でも昔はそうじゃありませんでした。


江戸時代には大晦日の夜から元旦の朝にかけ、それぞれの家の家長が氏神の社に籠る習慣があったそうです。


これを「年篭り」と呼ぶのですが、この儀式には<死霊>を呼び出す意味合いが強かったそう。


先祖の<死霊>はその年の<年神様>となります。


そして初日の出と共に降臨し、子孫の繁栄を見守って下さるのです。


だから五穀豊穣を祈って、先祖の死霊と積極的にコンタクトを取った。(つまりゆく年くる年降霊会だ)


年越しの儀式とは、もともとそのように神秘的なものだったのです。


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それにしてもなぜ人は新年になると初詣しなきゃならないと、本能的に思ってしまうのだろう?


信仰心のあるなしに関わらず、多くの日本人の血がほとんど反射的にそう思ってしまいますよね。


我々のDNAに何者かが号令してるんでしょうか?


「日本人よ、今こそお参りすべし!」とね。


すると日本人の集合意識はそれに立ちどころに反応する。


「初詣、今年はどこ行く?」


「え? 行かないの?」


「そんなのあり得ない! きっとバチ当たるよ~」


年末年始はそれぞれの共同体メンバーと同調することを強要されます。


昔っからそう・・・


じゃなければ村八分です。


「人混みに疲れて心が汚されるので、私はひとり静かに祈ります」


そんなこと口にしようものなら、非国民のレッテル貼られかねません。


個人主義の傾向の強い人には、日本のお正月はちょっと居心地悪い行事と言えるかも知れませんね。


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日本人は神聖なものも、俗っぽいイベントに仕立てあげちゃうのが得意です。


季節の農耕行事とスピリチュアリティーとをちゃっかり合体させちゃう、そういったしたたかさがありますよね。


だいたい神仏混淆の文化なのだから、お参りも神社だけって訳じゃなく、お寺でもどこでもOK。


要するにとてもフレキシブルなのです。



私は初詣の時、幾つも寺社巡りするのは浮気っぽくて良くないことだと思ってましたが、実はお参り回数の制限なんてないんだそうですよ。


たくさんの寺社仏閣を巡るのも全然アリだそうです。


また地元の氏神様には「必ず三が日の間にお参りするもの」と親に言われて育ったので、初詣って1月3日までに行かないと功徳がないものと思ってました。


けれどそれも単なる刷り込み。


親から受け継いだ<勘違いの遺産>だったのです。


初詣になぜ<初>の字がつくかというと、それは今年最初の参拝を意味してるからなんです。


三が日の間の参拝が正しい訳ではありません。


だから極端な話し、初詣が3月でも4月でも別に構わないことになります。


梅や桜が咲く頃になって「ようやくこれから初詣でありんす」って開き直ってみても、それはそれで構わなかったんですね。

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結局初詣とは、自分好みのご利益のある神社やお寺に、自分の好きなように行けば良いってことみたいです。


神社にはいつお参りしても良いし、何度行っても良い。


お参りすればするほどご利益はあるものなのです。


でも全く行かないとしても、特に祟りがある訳でもない。


ルールや戒律みたいなものもなく、極めてゆる~い神様が、かしこみかしこみ、そこにはおわす。


ようは物見遊山を楽しみながら、神様に新年のご挨拶に伺えば良いのです。


温泉みたいにほっこりしてる日本のスピリチュアル文化には、脱力系がお似合いなのです。

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お参りする時大事になるのは、ハウツーよりもむしろ動機。


神社に「どう」お参りするかより、「なぜ」お参りするかの方が問われます。


神社のお参りは行ったからどうなる、行かないからどうなるというものではありません。


<本気の願望>が大切で、中途半端な気持ちでは望みは成就しないんですね。


ポイントはあくまでもここ。


【本気で祈った者にはきっと良いことが起こる】です。


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<引き寄せの法則>以来、潜在意識にポジティブな願いをオーダーすれば望みは叶うって認知され広まりました。


それは本当だしそれ自体が悪いことではありません。


でもただ祈るだけじゃ効果的でないのも事実です。


望みとは、他力本願して棚ボタで叶うようなものじゃありません。


祈るのと同じくらい努力することも必要で、やれることの全てをやって、なおかつ神様にお任せするのが最も望ましいんですね。


「人事を尽くして天命を待つ」って奴です。


それも欲得抜きの気持ちで努力しなければ、多分願望は実現しないでしょう。


祈願とは<棚ボタ>や<まじない>ではないのです。


ちゃんと努力して自分の手でチャンスを掴まなければ、本当の意味でのご利益は手に入らないんですね。


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初詣のお参りとは神様への新年のご挨拶。


あくまでも表敬訪問です。


<お天道さん><お陰さん>に感謝の気持ちを表現すること。


目には見えない大きな何かに畏敬の念を示すこと。


それがお参りの本質です。


落ち込んだ時や、良くない状況に陥った時も、その状況に感謝してプラス思考を表明する。


神様は強い子がお好き。


だから芯の強さが必要なんです。


実際に辛い時そうするのが難しいのは良く分かるけど、敢えてそれをその度表明する。


それが人間の精神に光を灯すことなのです。


迷いの森から抜け出すきっかけを、自ら作ることになるんです。


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神様に逢いに行ってみてご覧なさい。


神社のご神体っていうのは、別にどうってことない丸い鏡ですよね。


でもその時初めて鎮座していた神様が、鏡に映る自分だったと気づかされるのです。


つまり神とはイコール自分のこと。


神様は有名なお社の奥の院で、私たちを見下ろしてる訳じゃないんですね。


神様は自分自身の中にいるんです。


そう信じて、神様との信頼関係をしっかり築いて下さいね。


結局「心におわす神」だけが、望みを叶える力を持っているのです。



お参りとは、人が人らしくあるために人が考えた智恵だと言えるでしょう。


自らのプラス思考を繰り返し表明するようなものです。


年が明けたら是非神様にご挨拶に行ってみて下さい。


もちろん、物見遊山を楽しみながらね。



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by viva1213yumiko | 2016-12-30 20:30 | 季節・行事 | Comments(0)

眠れる森の美女の夢

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正直冬って眠くなりません


私はメチャクチャ眠くなる。


気温の低下に合わせて、オツムもボディも冬眠省エネモードに切り替わる。


冬は夢見を育むシーズン。


いっそ<眠れる森の美女>のように、夢をじっくり熟成させましょう。


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<眠れる森の美女>のストーリーは欧州の古い民話の伝承で、様々なバージョンがあることが知られています。


ディズニー映画<眠れる森の美女>は、グリム童話をベースに創作されました。


糸車の紡(つむ)でユビを指し、深い眠りの中に落ちて行くオーロラ姫。


王子のキスで100年の眠りから目覚めると、二人はめでたく結ばれて、末長く幸せに暮らしたことになってます。



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でもフランスの詩人ペロー版には、その後の二人の運命が綴られているんです。


ペロー版では、姫の目覚めも王子の甘いキスではないのです。


100年の呪いが解除された時、彼女自らムックリ起きて来るんですよ。


なんだか拍子抜けしちゃいますよね〜


二人は結ばれて子供も二人授かるのだが、王子の母親の<王太后>は、なんと!<人食い種族>でありました。


そして嫁と子供たちを食べようとするんですね。


危機一髪になったところを<新王>に即位した王子が助ける。


そして悪行が息子にバレた<王太后>は気が狂い、ムカデやヘビがグツグツしてる大釜に飛び込んで自殺してしまうのです。



昔のヨーロッパって実際に人食いが横行してたのでしょうか?


<人肉>をテーマにしたシュールなお話しに仕上がっています。


子羊の肉を幼子の丸焼きと信じ、ムシャムシャ食べる人食いの母親に、どのようなメルヒェンを感じ取れというのでしょうか?


どうにも腑に落ちません。


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イタリアのバジーレ版はさらに強烈。


眠りに落ちた眠り姫は、悲しんだ父王にそのまま城に去り置き去りにされます。


その後、偶然鷹狩りでたどり着いた王が(父親か別の王かイマイチはっきりしない)姫を見つけるのですが、あまりの美しさに我慢出来ずレイプしてしまう。


眠り姫は眠っているうちに王に犯され身籠ってしまうのです。


それでも姫は眠り続け、眠ったまま不義の双子を出産し、子供たちによって初めて魔法が解けるのです。


王は別邸への通い婚を続けていたが、嫉妬に狂った王妃に事実がバレ、子供達は命を狙われ煮込みスープにされそうになる。


眠り姫も火あぶりで殺されそうになるのだが、そこに王の助けが介入する。


子供をスープにして飲ませたという話しを聞き、王は怒り狂い、王妃を火に投げ込んで殺す。


そして王と眠り姫は正式に結婚し、幸せに暮らしましたとさ。



悪魔教団の生贄儀式か何かからインスパイアされたのでしょうか?


ウォルト・ディズニーも度肝を抜かす<カルト・サスペンス>です。


物語はもう完全に善悪の彼岸を超えちゃって、すでにその教訓すら分からない状態です。


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    ♬ いつか夢で ♬     

        


     あなたをいつも夢に見て


     その瞳さえ、とても懐かしい


     夢は幻と言うけれど


     でも分かる


     あなたこそ、愛してくれる


     あの夢と同じに

  

                ディズニー映画<眠りの森の美女>より

  


           


<眠りの森の美女>は「理想の結婚」がテーマです。


でもそれは「自己主張しない従順な女が幸せな結婚を手に入れる」とかいう、昔風の教訓じゃありません。


「理想の結婚には100年費やしてもお目にかかるのは不可能に近い」


だから「妥協しなさい」っていうんでもない。


何かもっと深~い意味が隠されてるんじゃないの?


ウォルト・ディズニーも気付かなかった、もっと深遠で哲学的な何かがです。


無い知恵を振り絞り、私は考えました。


その結果、この物語のキモは<100年の眠り>そのものじゃないかという結論に至ったのです。


そうするとこのお話しも俄然ワクワク楽しくなって来ちゃうんですよね〜




オーロラ姫は死ぬ訳じゃなく<100年の眠り>の状態に移行します。


彼女はその間、どこかのアナザーワールドを訪問中です。


でも不思議なことに、彼女は眠りの中で真実の伴侶の姿を知るんですね。


真実の伴侶・真実の未来・真実の生き方・・・


不思議なことにそれらをみんな夢が教えてくれる。


まるで<100年の眠り>の状態には、未来の情報すべてが織り込まれているみたいですね。



<夢のお告げ>って馬鹿にならないんです。


キリストもブッダもその誕生のしるしを、母親は夢で知りました。


先住民の文化の中には、子供が生まれる夢を見ると、それを合図に精霊が宿り、そうして赤ん坊が生まれると考えるものがあります。


子供は勝手に本能的に授かるのではなく、両親のどちらかが「種子の状態から出現の状態」に整ったことを夢で知らされ、そしてそれを了解した者の元にやって来ると信じるのです。


そこには「命を生み出すのは両親ではない」という、自然界への謙虚さが感じられますね。


両親は命の誕生にただ身体を提供するだけ。


子供の誕生を夢に見るのは、特定の時期に特定の家族に生まれることを了承する人間を見つけるための、自然界からの通信なのです。


先住民はこのような文化を維持することで、現代を生きる我々よりずっと調和的な家族生活を送っていたと思われます。


きっとオーロラ姫も<100年の眠り>の中で、そんな風に結婚・出産の準備を整えていたに違いありません。

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<大いなる眠りの世界>では全てがお見通しなのです。


<大いなる眠りの世界>とは、現在・過去・未来、すべての時間を超越しています。


将来的に出現する予定のものは、それがまだ種子の段階でも情報を得ることが可能なんです。


実は眠り姫も100年の間に色々な情報をしっかりキャッチしてたのでしょう。


自分の伴侶、自分の未来、自分の運命を・・・


夢の中できっと直感的に感じ取っていたと思うのです。


邪悪な妖精の呪いで100年肉体を動かすことは出来なかったけど、きっと精神は自由に飛び回っていたはず。


真実の愛が熟成する時を、静かに待つことが出来たはずです。



100年の時を待ち続け、永遠に思えるほどの時間が過ぎ去ったとしても、どこかに必ず運命の人はいるはず。


出会うことで自分が完全になれるような、そんな運命の人がいる。


欠落したものを埋め合わせることの出来る、たったひとりの特別な誰か。


その人と出逢える時が来る。


誰もがその奇跡に憧れ、その時を待ち望んでいる。


本当の自分に戻れる瞬間を誰もが待ち望んでいるのです。

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実は人間なんて、皆んな深い眠りに入ってるようなものなのです。


イバラに囲まれた古城の中で、眠りこけてるあなたの意識。


それを優しく揺り起こし、呪いを解除する方法がどこかにあるはずです。


それは一体何なのでしょう?


オーロラ姫のお話しは、我々にそのことを思い出させるためにあるのです。




真実の愛を否定した人生。


それがどんなに味気ないか、ちょっと想像してみて下さい。


どんなに時代になろうとも人の心にはメルヒェンが必要です。


たったひとつのメルヒェンで心救われることもあるのです。



冬は夢見を育むシーズン。


<眠れる森の美女>のように、夢をじっくり熟成させましょう。


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by viva1213yumiko | 2016-11-28 15:07 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

アヴェ・マリアのバラード

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毎年クリスマスのこの時期になると、幼稚園でのクリスマス・キャロルを思い出します。

教会付属幼稚園では恒例行事として、園児に<キリスト生誕>のお芝居を演じさせるのです。

飼い葉桶に眠る幼子イエスと、その聖家族を祝福する東方の三賢者。

<ルカによる福音書>の美しい名シーンを、園児たちがたどたどしいセリフ回しで演じる。

親御さんや先生方にとっては、笑いと感動に満ちたクリスマスなのです。


ベツレヘムの聖夜のお芝居・・・

その中でも花形なのは、やはりマリア様です。

女の子なら誰もが秘かにマリア様の役どころを望むんですね。

もちろん私もマリア様を夢見てたのですが、その年割り当てられたのはなんと、モミの木の役。

ベニアの書き割りを持って、過剰にヘラヘラと愛嬌を振りまき、♬主〜ワッ来ィマッセ〜リ〜♬ と歌っておりました。

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聖母マリアとは<永遠の処女性>の象徴です。

<純潔の白百合><穢れなき魂>を意味します。    

少女だったマリアは男を知らぬままイエスを身ごもり、大天使ガブリエルに受胎告知されちゃうのです。

名曲<アヴェ・マリア>とは、聖母マリアへの典礼の言葉に曲がついたものですが、どれも皆その時天使が語った祝福の言葉から始まります。(最初の2行)



   おめでとうマリア 恩寵に満ちた方 

   主はあなたとともにおられる

   女性のうちで祝福された方

   そしてあなたのお腹の子 イエスも祝福されている

   聖なるマリア 神の御母

   罪人なる我らのために祈りたまえ

   今も 我らの死の時も アーメン



なかなか感動的な受胎告知であります。

しかしこの受胎告知、マリア本人にしてみれば「レレレ・・・?」って感じだったんじゃないでしょうか。

だって覚えもないまま受胎させられ、「あんた妊娠してんだよ。これって名誉なことなんだよ。」って天使に告げられるんですよ?

現代の都市伝説なら、これはエイリアンのアブダクション事件そのものです。

マザーシップに拉致されて、知らぬ間に生体実験され、そのあげくに異星人から妊娠を告げられる。

「祝福なんて冗談じゃないわ! やってらんないわよ、まったく!」

なんて、マリア様はそんな風には思わなかったのでしょうか?

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カトリック神学では、マリアは純潔で穢れがない<神の母>で、<無原罪の女>であるとされています。

旧約聖書の女イヴは原罪を犯し楽園を追放されましたが、新約聖書の女マリアは原罪のない清らかな女であるという訳です。

結構ご都合主義っぽい感じもするのですが、原節子さんみたいな<永遠の処女>って、昔から人々の花形ヒロイン像だったんですね〜

だからでしょうか、4世紀ぐらいになるとマリア様のように処女のまま生きることを選ぶ女性が増えて来たんだそうです。

<キリストの花嫁>として修道生活を送り、<神のはしため>として生きるのです。

<はしため>・・・

これは<はしたない女>ってことじゃありません。

自分の命と人生は、神に生かされているものとし、神の望まれる意思にピッタリ寄り添って生きること。

自分の人生にふんぞり返り、困った時だけ神を呼ぶような調子の良い自我を殺して、もっと大きな意思のため、身を捧げて懸命に生きる人のことです。

そういう生き様をする女性は、皆<永遠の処女>です。

ホントに処女か処女じゃないかが問題じゃないんですね。


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マリア様って無原罪なのだそうです。

無原罪とは、東洋風に言うと「カルマがない」ってことですね。

「カルマのない清らかな女性だから神に気に入られ、救い主イエスの母に選ばれたのだ」

と、そういう理屈なんですね。


しかし神学でいくらマリアの霊性を説明されても、そんなこと民衆の信仰心にはどうでもよいことだったに違いありません。

庶民にとってのマリア様とは、自分たちを抱きしめて癒してくれる母性愛の象徴です。

愚かな我々をいつまでも許し続ける<慈母観音>のような存在です。


だから処女のまま救世主を宿すという話しの中には、多分「清らかな母性の力で人は救われる・再生される」って意味が込められていたのだと思います。

エジプトのイシス神など、伝統的な大地母神への信仰が、自然な形でマリア教に代わっていったのでしょう。

キリスト教が現われる以前からあった、異教の女神の神殿が、マリアに捧げられる教会へと変容したのだと思います。

そういう意味で、マリア様は人類救済の歴史を引き継いでいるんですよね。

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<穢れなき永遠の処女>であり、<神の花嫁>であるマリア。

それは地上と天界をつなぐ仲介者でもあります。

だからマリア様が出現した場所は巡礼地となり、パワースポットにもなっているんですね。

もしあなたの周りに乙女のように清らかで、そして聖霊とも交信出来るようなお母さんがいたなら、その人はきっとあなたにとっての地母神ですから、大いに大事にして頂きたいです。


いずれにしてもイエスのような救世主の母親には、それと同じくらい純粋で、器の大きな女性じゃなければダメなのでしょう。

名曲<アヴェ・マリア>とは、偉大なる母性を讃える歌だったのです。

キリスト教版の「母に捧げるバラード」なんですね。




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by viva1213yumiko | 2015-12-23 13:28 | 季節・行事 | Comments(0)

冬期ウツの自分セラピー

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「真冬になると精神的に落ち込む」という声を良く聞きます。

お正月のハレの時期が過ぎると、とたんにやる気がなくなって、2月末くらいまでウツっぽく過ごしちゃうという人が多いのです。

これ、冬期ウツとも呼ばれ、この時期は皆んなやけに内省的になりやすいので、やり過ごすためには一工夫が必要なのです。

かく言う私も、イマイチ元気が出なくて困ってるところ・・・

「いつでも溢れんばかりのエネルギーに包まれていたい!」という理想像はあるのですが、寒さでなかなか起きられない→グズグズする→思い通りに物事が進まない→イラつく→ストレス解消に一杯→楽しくなる→調子に乗る→飲んだくれる→ますます起きれなくなる。

そんな堕落スパイラルに落ち込んでしまうのです。

最も本物のウツだったら飲んだくれる気力もなくなるはずなので、これはまぁ、プチウツとかアンニュイって感じなのでしょうか?

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プチウツねぇ〜・・・う~む。

私の心の奥では、一体何が起こっていると言うのでしょうか?

たまには自分自身を客観的に知るのも良いと思い、タロットをめくってみることにしました。

何か問題があるとしたら、その迷路から抜け出すヒントがきっと見つかるはず。

冬期ウツに似たモヤモヤがどこからやって来るのか、それは一体何者なのか、そしてどうやってそこから抜ければいいか、自分自身でタロットセラピーしてみるのです。


心を静めて、カードに疑問を問いかける。

そして、ゆっくりとカードをめくってみる。

問いかける、めくる・・・

問いかける、めくる・・・

納得するまで繰り返してみるのです。

すると光明の光が差し、目からウロコが落ちるように、モヤモヤの原因が分かって来ました。

私のこのモヤモヤ気分・・・

なんとそれは、自分を愛してないという証しだったんです!(驚)

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本来人は自分自身を受け入れ愛していれば、どんな不幸だって、どんな境遇だって、どんな感情だってやり過ごせるはずなのです。

100%自己充足して自分を愛せれば、愛を受け取ることにOKを出せるからです。

心を開いて宇宙から注がれる愛情を100%受け入れる。

そうすると、次にはそれら全てを他者へ分け与られる程の、大きな豊かさが回り始めます。

けれど残念ながら、殆どの人がそうは出来ません。

皆んな自分に不満が残っているから、宇宙から贈られて来る愛を拒絶し、豊かさや喜びを感じられないでいるのです。

それには理由があるんです。

それは、人は<条件付けされた愛><パターン化された愛>しか知覚出来ない、そういう癖を持ってるからなんですよね・・・

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<愛の条件付け><愛のパターン化>を理解することはとても大切なんです。

例えば母親に厳しく育てられ、心の中の寂しさ弱さを表現出来なかったAさん。

自分の想いより先に、まず人の感情から優先する癖があります。

例えば自分の辛い感情を怒りの形でしか表現出来ないBさん。

当然、周りとはトラブルばかりが起こります。

そして人生の空しさを権力やお金で解消しているCさん。

人との深い心の交流を望んでいるのに、なぜか皆んな避けて行きます。


彼らの問題のルーツは<条件付けされた愛情>、つまり愛し方の癖に原因があるのですが、果たして本人がそこまで気づいているのかどうか・・・

けれどそこに気づくかどうかで、彼らの人生は雲泥の差になっちゃうんですよ!

人は不満と悲しみが溜まると自己不信が募り、ついつい周りの人々や自分自身を傷つけてしまいがちです。

だからこそ内面に隠された弱い部分・脆い部分は、セラピーで愛の光にさらけ出す必要があるんですね。

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人は皆、誰かの愛を欲しがるものです。

もっと親の愛を貰っていれば、自分はこんな人生を歩まなかった。

あの時彼が(彼女が)もっと自分を愛してくれたら、こんな風にならなかった。

ってね・・・

でもね、本当に必要なのは誰かが与えてくれる愛ではありません。

必要なのはむしろ「自分自身とひとつである」という質のようなものです。

自分自身との折り合いをつけること。

誰よりも自分を愛することが大切になって来るのです。

愛を知りたければ自分自身を癒し、許し、自分に満足することが、まず先決となります。

自分への慈悲の心を持てるかどうかが鍵になるんですね。


もしあなたも、冬期ウツかも知れない?と思うなら、是非とも自分をセラピーしてみて下さい。

心のモヤモヤを整理整頓してスッキリさせると、色々なものが見えて来ますよ。

毎年冬になると落ち込んでしまうという方は、それは神が与えてくれるセラピーチャンスと考えてみて下さい。

冬っていうのは宇宙と対話するのに相応しい季節です。

きっと冬はそのためにある時間なんでしょうね。


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   冬をしっかり越さない限り、春をしっかり感じることはできない。

   それは幸福と不幸のあり方に似ている
                             
                          星野 道夫




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by viva1213yumiko | 2015-01-11 00:30 | 季節・行事 | Comments(0)

聖夜の三味一体

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甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの・・・

おやつや嗜好品に適しているのは、この代表的な3つの味でしょうね。

<美味しい>には、どれも欠かせません。

だからこの3つを繰り返し食べると、エンドレスで止まらなくなります。

チョコとチーズと赤ワイン

シャンパンと生ハムとメロン 

マドレーヌとポテトチップスとレモネード 

みかんと甘納豆とサラダせんべい

いっそのこと、これら甘味・酸味・塩味を合体させた新しい食品があれば、凄いヒット商品になるかも?

そうひらめいてはみたけど、甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの、三味が合体した食べものって案外思い当たらないものですね。

<イチゴ塩大福>とか<ハバネロ黒酢羊羹>とか<サンラータン・アイス>とかどうだろうか?

いやいや、もうすでにアジアン・フードなどで<酸っぱ甘塩っぱい>お菓子はあるのかも知れません。

どなたか情報をお持ちでしたら、三味一体型のお菓子について詳しく教えて貰いたいものです。

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話しはいきなり変わりますが、クリスチャンの皆さんは礼拝の時に「父と子と聖霊の名において・・・アーメン」と唱えますよね。

これキリスト教神学の三位一体という考え方で<父なる神><子なるキリスト><聖なる霊>の三者の位格を讃える言葉なんですね。

ぶっちゃけ三位一体とは「父と子と聖霊、それら3つは元々ひとつであって、ひとつが3つでもありますよ~」って教えなのです。

それって、神様はひとり三役してるって事なんでしょうか? 

あるいは多重人格?

いいえ、似てるようだけどそうじゃないみたいなんです。

三位一体とは、三者が心を合わせてひとつになるという事。

3つの別々のものが結びついて成り立ってるって意味です。

この世界が愛で満ちあふれた美しいものになるように、創造主は父と子と聖霊のパワーを使って3つの次元からちゃんと完璧に我々の面倒を見ていますという教義です。

「父と子と聖霊は、いつでも強力し合って善性のために働いているんですよ〜」

「だからいつでも安心してお任せしてればいいんですよ〜」って教えです。

そういう事なので、唯一の神の中に<父と子と聖霊>の3つの神格が入っていてもそれはそれで辻褄合っているんです。

例えば3本のロウソクの炎をひとつに合体しても、3つに離してみても同じ炎である事に何ら変わりはありませんよね。

三位一体とは、次元の違う3つの聖なる存在の人格(神格?)が統合されてて、完璧な世界の運行を意味しているんです。

だからそこでは父なる神と子の意見が違ったり、子と霊の意志が違ったり、という事もないんですね。
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しかしそれにしても、三位一体って難しい概念ですよね。

<父と子と聖霊>・・・

それって<精神と肉体と霊魂>の事でもありますね。

<未だ生まれざるもの>と<生まれちゃったもの><見えないけれどそこら中に存在するもの>って感じでもあります。

これらの3つがあってこそ、キリスト教の霊的世界が全体的な構図で捉えられるようになるんだそうですよ。

いや〜、奥が深いですね〜

神とは我々の想像を超えたあまりにも大きな存在なので、そんなに簡単に説明出来ないものなのです。

三位一体とは<戦争と平和><愛と憎しみ>など、優しいようでいじわるで、厳しいようでも救いをもたらす複雑な神の側面を、方程式で表現するのにちょうど都合が良かったのかも知れませんね。(笑)


この地球では約2000年程前に、<創造主とキリストと聖霊>とが合体して、ひとつの偉大な真理が生まれました。

それと同じように、我々ひとりひとりの<精神と肉体と霊魂>とが合体すれば、いつか神の真理も理解できる時が来るのかも知れません。

「父と子と聖霊とが合体すると永遠の愛の交わりが生まれて、何か神聖なものが出現するんだよ」

「この世界にはそんな神の恩寵で満ちあふれているんだよ」

キリスト教徒の方々は、三位一体説で多分そんな事を言いたいんじゃないだろうか・・・

私にはそんな風に感じられてしまうのです。

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聖書によると、イエス・キリストは神が受肉した<神のひとり子>だと記されてます。

果たしてイエス・キリストとは神なのか? 

普通の人間だったのか?

それとも神様のお使い的な何かだったんだろうか?

甘いの、酸っぱいの、塩っぱいの・・・

聖なる夜にはとことんまで三味一体(三位一体)を堪能しましょう。

そして、創造主の想いや計画についてエンドレスに考えてみるというのもオツな過ごし方です。

メリークリスマス!

皆さん、どうか良いクリスマスをお過ごし下さいね。




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by viva1213yumiko | 2014-12-24 02:52 | 季節・行事 | Comments(0)

お点前事始め

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日本人と生まれたからには、何か日本的な趣味のひとつでも持ってみたいものですよね。

「ご趣味は?」と聞かれた時に、「書を少々」とか「日舞かじりました」とか、「盆栽アートにハマってます」とか・・・

上品そうにはにかみながら、そう答えて見たいものです。

常々そんなチャンスがどこかにないかと思ってら、ひょんなはずみで茶道のお点前を習う事になってしまいました。


茶道師範の友人の誘いで茶席に招かれた事はあり、お茶会がどういう雰囲気なのかは知ってました。

しかし客人として茶会に出席する事と、自ら客人にお茶を立てる事との間には、アイガー北壁ほどの大きな壁が立ちはだかります。

茶道には<型>という決まりごとがたくさんあり、聞き慣れない言葉やタブーも多く、美意識満載すぎてハードル高すぎじゃない?

古美術みたいなお道具だってどうにも理解し難いし、第一私、正座が出来なかったじゃない!

キャリア30年以上のF先生は「おもてなしの心さえあれば、お点前なんて誰でも出来ますよ」と精神論が優先です。

しかし私には「足のしびれをどう克服するか?」「茶道具を何で代用するか?」などの、現実的な課題の方が大きいのです。

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                        (裏千家流盆点前)


茶道には長い歴史がありますが、その伝統のあちこちに遊び心もたくさんちりばめられているのです。

春夏秋冬の宴や野山遊びのために、野点や箱盆点前などのピクニックバージョンも発達しました。

現代ではテーブルの上でお点前する、<テーブル茶道>というものもあります。

本当はかなり自由でフレキシブルなものなのです。

そこで私は考えました。

お客様の時「コーヒーにしますか、紅茶にしますか、それともお抹茶立てましょか?」なんてサラリと言えたら格好いいんじゃないかしら?

外国人にアピールすれば、「 OH! ワンダフォー! オ・モ・テ・ナ・シ!」なんて、きっと感激してくれるに違いありません。

2020年オリンピックの時にも役立ちそうです。

かなり不純な動機ですが、私はFさんに詰め寄りました。

「なんちゃって茶道でいいからお点前教えて〜」 
「茶道を一般人にも解放せよ!」

伝統的な茶道の世界では、技は師匠から弟子に口伝で伝わるそうで、パーツパーツのカリキュラム制みたいなものはまず成立しないらしいのです。

しかしF先生は太っ腹だった。

「よろしゅうございます。10回通って頂ければなんちゃってどころか、ちゃんとお薄が立てれるようにして差し上げます。」と言ってくれたではありませんか。

「お薄・・・」

う〜ん素敵! なんてマニアックな響きかしら・・・

このようにして、かなりオリジナルの<チケット制茶道・10回コース>が幕を開けたのでした。


10回の茶道レッスンは友人宅で行われたのですが、そこは普通のお宅なので当然茶室などありません。

なので一番のネックは「どうやって湯を沸かすのか?」という事につきます。

蓋を開けた電気ポットを茶釜に見立てたりする人もいるらしいのですが、今回は皆で頭をひねり、なんとカセットコンロに土鍋を乗せて、それで炉と釜の代わりにしてしまいました。

換気のためにしょっちゅう窓を開けないと危険だけれど、それ以外は何とか無事クリアです。

水こぼしはどんぶりで、蓋置きは小鉢で、水差しはビスケット入れで代用です。

床の間に見立てた場所には、掛軸の代わりに季節の花の手ぬぐいを飾りました。

香炉はアジアン風だし、飾り花はバラやガーベラで洋風だし・・・

かなり強引かも知れませんが、こんな風に手持ちのグッズを集めて<茶道ごっこ>してみると、カフェオレどんぶりで抹茶を飲む日本通の外人さんの気分に浸れてとても新鮮です。

表千家や裏千家の宗家家元が聞いたら腰抜かすかも知れませんけどね。(笑)

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ところでお茶やお花が嫁入り前のお稽古事になったのは、明治以降になってからって知ってましたか?

それより前の時代では、茶道とはお侍さん・お坊さんのもの。

主に男たちがたしなむものだったのです。

小さな密室で膝を割って他者と対面する。

それは主客がひとつに交わる行為であり、嘘偽りの通用しない、心のすべてが見透かされる真剣勝負だからなんです。

だから武士は茶道を好み、積極的にたしなみました。

相手の武将が信頼出来るか、下心を持っていないか、茶席を同じくして知る事が出来るからなんですね。

またお坊さんたちは座禅中、眠気を押さえるため茶を点ててたと言います。

そうなって来ると、お抹茶とは昔の覚醒剤みたいなものだったんでしょうかね?

となると、千利休はドラッグ系アーテイストと言えなくもないですね。(笑)

利休の昔から、茶道と精神論とが切っても切れない間柄なのは、語り継がれる色んなエピソードからも想像されて面白いですよね。

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昔の日本人って、現代の我々よりもずっとっずっと純粋だったと思います。

自然のリズムに逆らわず、仁義礼智を重んじ、日々お天道様に感謝して、シンプルに暮らしていたのでしょう。

日本人の素晴らしい美徳を知るために一服のお茶を点てる。

その行為が今の私には思いのほか役に立っているのです。

慌ただしい毎日だからこそ、自分の純粋な部分とアチューンメントするため、このような時間を大切にしたいものです。




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by viva1213yumiko | 2014-06-10 20:15 | 季節・行事 | Comments(2)

恋愛の心理

   「愛」と「恋」という字を比べてみて下さい

   「心」という字はどこに付いていますか?

   「恋」は下に、「愛」は真ん中にあります

   だから「愛は真心、恋は下心」なのです        江本勝

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恋愛に悩む人は多いですよね。

特に若い人にとっての恋愛は、人生の一大感心事です。

確かに巷で言われる通り、恋愛中の人の心理は一種の流行病いと同じで、周りが何を言っても愚の骨頂、聞く耳持ちません。

セロトニンやらエンドルフィンやらの脳内快楽物質の大量放出で、<恋する愚か者>の一丁あがりです。

恋をした時、一体人間の心の中でどのような変化が起こっているのでしょうか?

恋愛心理を分析的に説明した、ズバリ<恋愛の心理>というタイトルの新書本を読んでみました。

国分康孝という心理学の先生の書いたこの本は、人は恋愛することで何が起こるのか、恋愛の過程で何が変わってどう成長するのかを、発達心理の切り口で解説しています。

この味も素っ気もない切り口が、むしろ新鮮で面白く感じられたので、ちょっと紹介しておきましょう。

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<恋愛の心理>によると、異性への恋愛に進むには4つの条件があるそうです。

まずあなたがこの4つの条件をクリアしてないと、特定の異性との恋愛関係に進めないと言うのです。


   性感情・・・相手に性的感心を持てるか

   理想我・・・なりたい自分に近い人に惹かれる

   愛・・・・・相手の思考・感情・行動に共感出来るか

   自己開示・・人との触れ合いを求めているか


つまり人が恋愛に至るにはそれなりの過程が必要で、それは自己中心的な引きこもりやオタクの世界観から卒業し、自分の夢や人生を踏み出す段階まで成長しているかどうかが問われるのです。

それ以前の段階(アイドルやアニメヒロインに熱を上げている段階)は恋に対する憧れの状態で、まだ本当の恋愛関係を結びうる心理的成長段階にはないのだと思われます。

若者たちの話しを聞いていると、盛んに「恋愛したい」と口走るのですが、美味しいとこだけ味わえる無邪気なジャレ合いみたいなものを欲しているようで、本当の恋愛関係へのコミットは正直あまり感じられません。

親の過干渉で大人になりきれない現代社会では、必然的に恋愛経験の乏しい若者が多いようです。

魂の成長のためにも、日本の少子化対策のためにも、バーチャル世界から飛び出し積極的に異性と交流して頂きたいものです。

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さて、何とか無事に恋愛をスタートさせる事が出来たとしましょう。

すると次に人はどう変わるのか?(どのように成長するか?)という点が気になります。

「恋をしてメロメロになって鼻の下が伸びる」って、そんな単純なもんではありません。

著書には恋愛をすると以下のような成長が期待されると記されています。



   自己主張の体験

   自主独立の精神が養われる

   柔軟性が養われる

   不安定性・不確実性・カオスの状況に漂う能力が身につく

   生きる力が沸く

   自分という人間が認識できる。自覚できる

   認識の世界が拡大する



はぁ・・・

恋愛ってもんを改めて理屈攻めにしてみると、こんな感じになるんですねぇ〜

「カオスの状況に漂う能力が身につく」なんて泣かせるではありませんか。

確かに恋愛は相手があって成り立つもの、自分の思う通りになんかなりっこありません。

生きる根源パワーも身につくけど、寛容性や柔軟性も恋愛の必須学習アイテムです。

強さと優しさを養うために、恋愛は良い修行道場だと言えるでしょう。

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そして本はそこから更に進んで、恋愛中毒の原因(別れられない人の心理)まで分析してくれてます。

恋愛中毒の人というのもそれなりの理由があるようです。


   幼児性が強い

   過去の満たされなかった関係を再現してしまう

   アイデンティティを失うのが怖い

   こじつけによって人生の事実から目を背ける


なるほど・・・

なんか分かるような気がします。

ストーカーになる人は、自分の頭の中で勝手に作り上げる恋愛ドラマにハマっちゃうんですよね。

脳内ストーリーをどんどん脚本し、自分で演出・主演しちゃうのです。

更に<ひとり芝居>に気付かなくて済むよう、事実を自分の都合いいようにねじ曲げちゃう。

ストーカー行為の根本的な原因とは、<真実と向き合う事への怖れ>があるのだと思います。

言葉にするといかにも簡単ですが、この怖れのハードルはとても高く険しいのです。

しかし魂の成長の鍵は常にここに隠されています。

自分が抱える<根源の問題と対峙する怖れ>を克服しなければ、恋愛相手への執着はますます強くなる一方でしょう。

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そして執着がエスカレートすると、相手を支配して繋ぎ止めようと色々な工作を始めるものです。

その方法にも大抵いくつかのパターンがあります。


   脅す

   依存・甘え・弱さを売り物にする

   罪の意識をかき立たせる

   嫉妬心を刺激する


そこら辺になってくると、もう恋愛とは言えなくなるような気もします。

<魂の成長のための恋愛>は当初の目的を達成した感が強まり、もう十分、トゥーマッチといった気持ちになって来ます。

意味のないドロドロを続けて、時間をムダにする空しさから逃れ、関係を解消したくなります。

「あの人とはもう別れるべきだろうか?」

そう迷った時のため、筆者はご親切に<別れを見極めるポイント>さえ教えています。

<別れを見極めるチェックポイント>にはこんなものがあります。


   相手に好かれてると感じるか

   相手に好意を持っているか

   相手に大事にされていると感じるか(なめられてないか)

   自分は相手を大事にしているか(軽蔑の目で見てないか)

   相手に信頼されてると感じるか

   自分は相手を信頼しているか(猜疑心はないか)

   デートして楽しいか

   セックスに満足感はあるか

   一緒に過ごす時間が勿体なくないか

   劣等感を持つことがあるか(学歴・容姿・教養・生い立ち・収入・地位)

   話しは通じやすいか

   話しは合うか

   言動が前向きで建設的か

   困っている時(病気・失意)具体的に何かしてもらったか

   知識や技法を教えて貰ったこと、教えてあげたことがあるか

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これが恋愛の成り立ちから終焉まで、それぞれの通過点で心に何が起こっているのかの全容です。

どうでしょう? 参考になりました?

恋愛のゆりかごから墓場まで・・・

まるで生命プロセスそのもののようで、ちょっと感傷的ですね。


恋愛にも春夏秋冬の季節があります。

そして私たちの人生に彩りを添えています。

恋愛のそれぞれの季節に、その時期ならではの美しさがあるものです。

それらのすべてを愛おしんで体験し尽し、人生の輝きを喜びと共に受け止める。

そんな事が出来るとしたら、それこそが本物の<恋愛の達人>の境地なんだと思いますね。

まだまだ遠い道のりのようです。




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by viva1213yumiko | 2014-04-13 00:09 | 人生・霊性 | Comments(0)

発芽の春

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世の中には園芸の才能に特別に秀でた人がいます。

その手の才能の持ち主は、植物の持つ本来の力を、100%目覚めさせる事が上手なのだと思いますね。

そして、「いいね〜!」「それいいよ!」「頑張ろうね!」「あとちょっとだね〜」「キレイだね〜」なんて言葉巧みにおだて上げ、野菜やお花をその気にさせて育ててしまうのです。


植物は、たったひと粒の小さな種から成長を始めます。

まぁ、しごく当たり前の事なんですが、その事を良〜く考えてみると何とも不思議な現象ではありませんか?

バラの種はバラの花を咲かせるため、発芽の時期や開花の時を入念に選んで待機しています。

コスモスの種にもコスモスを咲かせる計画が、ちゃんと内部に隠れている。

おのおのの植物は、その種の中に全体の設計図がちゃんと入っているという事になりませんか?

土・水・光と温度や湿度・・・

ある特定の条件が満たされた段階で、それぞれの種は発芽を開始しますよね。

起動スイッチがONになるその時期も、まるで種の中に計画書があったかのように正確です。

梅も桜も、菜の花もチューリップも、全ての植物は内側から大きくなって行くのです。

それに比べてみると、我々人間は一体どうなのでしょう?

私たちそれぞれにも魂の設計図が隠れていて、特定の条件や光の加減で発芽を開始するように、そんな風に計算されているのでしょうか?

自然界には何らかの意図が隠れているのでしょうか?

それともそんなのは、無作為の偶然なのでしょうか?

春の日差しの眩しい昼下がりは、満開のお花畑を夢見つつ、ツラツラとそんな事を考えてしまうのです。
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<日月神示の身魂磨き>という教えを聞いたことありますか?

その教えによれば、肉体と魂の両方を磨いて正しい生き方をしていると、機が塾した時、人間にも何らかのスイッチが入る事になってるのだそうです。

機が塾す時って・・・

私は早咲き? 

それとも秋に咲く花かしら?

私寒いの苦手だし、根性ないし〜

かなり暖かくなるまで咲きたくないし〜


コホン、失礼・・・

ともかく、人には何らかのスイッチが入が時がある、とは興味深い話しであります。

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日月神示は1944年、画家の岡本天明氏のところに降りて来た、国常立尊(クニトコタチノミコト)という神様のメッセージで、人々のこれからの生き方とその大切さを、自動書記の霊言現象で記し伝えた文書なのです。

<人間の生き方><正しい食生活><夫婦の本当のあり方><霊界の実相>などについて語っています。

いわば霊界通信ですね。

故丹波哲郎氏のお仕事の正統派版ってところです。


その日月神示によると、今の時代、世界はメグリの総決算なのだそうです。

個人のレベルでも、家族のレベルでも、社会レベルでも、国家レベルでも、メグリ(因縁)が総決算されているのです。

つまり、過去のさまざまな発言や行動が、自分自身や家族や組織や国際情勢に、因縁となってイッキに巡り返って来る、そんなダイナミックな時代なのだそうです。

だから、自分の身に降りかかって来るものは全て自分で引き寄せたものなので、たとえ悪い事でもその事実を受け止めること。

結局はすべて自らが原因を作っていることを深く理解し、その責任を取るべく覚悟を決めること。

それらが最も大切です。

そして・・・


 [実はこの世の現象は、すべて自分の心が鏡になって反映されている]


その真理に気づく時、そのタイミングこそが、機が熟して<スイッチが入る時>なのだと教えています。

そして、やがて来る<スイッチが入る日>の為に、身(肉体)と魂(心)の両方を磨く事が大切だと教えているのです。


具体的には贅沢を戒める。 

無駄を省く。 

早寝早起きをする。 

食べ物に気をつける。 

怒り・恨み・妬み・嫉み・不平不満などの悪想念を排除し、感謝と祈りの善想念を強く出す。

などが上げられます。


良いと思った事はすぐに実行し、悪いと思った事はすぐに止める。

悪口を言われる事でメグリ(悪因縁)を取ってもらえるので、メグリがなくなれば悪く言われる事もない。

身の周りの清掃と整理整頓をし、食べ物を大切にする。

神社や聖地を参拝し、神の意にそったマコトの行動をすること。

これらのことを意識化することで身魂は磨かれて行くと言います。



「内にあるものを浄化すれば、外から近づくものが変わって来る道理。
内の自分を洗濯せずにいて、汚いものが近づくとか、世の中が暗いとか、不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。
木でも草でも中から大きくなって行くのじゃ。」

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日本は世界の雛型になる国。

だから日本人の霊性への目覚めがとても大切だと、あちらこちらで噂されています。

いつ何時スイッチが入っても構わないように、皆さんも霊性を磨いて準備を整えておいて下さい。


発芽の春はすぐそこなのじゃ。




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by viva1213yumiko | 2014-03-15 22:30 | 人生・霊性 | Comments(0)

トゥオネラの白鳥

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先週の積雪27㎝の大雪の日。

どうしてもこなさなければならない仕事があったので、レインジャケットの中にダウンを着込み、帽子、マフラー、手袋、マスク、防寒ブーツに靴下二重履きの万全の態勢で出かけて行ったのです。

都会では滅多にない大雪なので、気分はウキウキと子どものように高鳴り、脳内エンドルフィン急上昇のせいなのか、わざわざ遠回りしてでも美しい雪景色を見たくなってしまいました。

そして人っ子一人ない、犬の子一匹もいない、猛吹雪の代々木公園を、ひとり彷徨う事となったのです。


そこはまるで別世界。

完全に東京ではなくなっておりました。

横殴りの風が積もったばかりの新雪を巻き上げ、雪女の亡霊とともに駆け抜けて行く。

地嵐のような風雪を避けるため、思わず樹木の多い場所に身を寄せる。

雪が都会の喧噪を見事に吸収し、そこはとてつもなく静かな林でした。

どこからだろう?

雪を避け避難した野鳥たちの、軽やかで楽しげな声が聞こえて来る。

こんな吹雪の中、一体鳥たちはどこでさえずっているのだろう?

幹の上方の鳴き声の辺りに視線を上げてみました。

しかし風にたわんだ枝から、ドサドサと雪が落ちるだけ。

そして辺りに、また一層の静けさが甦るのでした。


「ここは東京じゃない! まるで極北! ツンドラの大地を行くようだ!」

マインドがそう呟いた瞬間、私の空想は大きく翼を広げ始めました。

頭の中に古ぼけた蓄音機があらわれ、レコード盤の上にゆっくりと針を降ろしたのです。

そこから流れ出した旋律は・・・


   [近寄るものを寄せ付けない、凛とした厳しさ]


   [この世のものとは思えない、冷たい静寂の気配]


ん? この曲、聞き覚えがある。

レコード盤から流れて来たのは、シベリウスの交響詩<トゥオネラの白鳥>だった。

死者の悲痛な叫びのような、魂を揺さぶる重~い旋律です。


「そうだ、トゥオネラだ! ここは黄泉の国、トゥオネラだったのか!」


大都会の真っ只中。

頭の中でリピートされるシベリウスのメロディを思い起こしながら、私はひとり代々木のトゥオネラを旅する人となっていたのでした。

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北欧フィンランドの作曲家シベリウスは、祖国の英雄叙事詩<カレワラ>のオペラ化を望み、作曲に取りかかっていました。

その願いは壮大すぎて、結局断念される事となったのですが、出来上がった序曲は交響詩<4つの伝説・レミンカイネン組曲>という作品にまとまり残されたのです。

<トゥオネラの白鳥>はその二番目の曲なのですが、とても有名で単独で演奏される事も多いのです。

英雄レミンカイネンは花嫁を得るため、その母親から3つの試練を授けられるのですが、2つまでやり遂げたあと最後に残ったのが「トゥオネラ川の白鳥を捕まえる」という難題だったのです。


死の川トゥオネラ・・・

トゥオネラはこの世とあの世との境目の川で、そこに住む白鳥は死者の魂をかの地へ導く、妖しく美しく恐ろしい存在なのです。

シベリウスはその死のイメージを、美しく幻想的な曲にして見事に表現しています。


霧の中を行くような弦の響き。

この世のものとは思えないただならぬ気配です。

白鳥の主題の旋律は死者の悲痛な叫びのように、重く静かに魂を揺さぶって来ます。

黄泉の国のトゥオネラ川に漂う白鳥は、優雅でありながら儚く、現実のものとも幻とも分からないイメージなのですが、その映像がはっきり目に浮かぶような不思議な音楽です。



   死してなお熱き想いの醒めぬ者は、
  
   死の川トゥオネラの白鳥となりて、
  
   ただ一羽、
  
   凍てついた水に心を癒す



主人公レミンカイネンが狩りに失敗して死んだあとの、静まりかえったトゥオネラ川を泳ぐ、優美な白鳥の姿を彷彿とさせます。

そこには自然界の美しさと恐ろしさが共存しているのです。

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代々木公園には大きな噴水のある池があります。

だから白鳥たちはきっとそこで羽を休めているに違いない。

そして死に行く者たちの準備が整うその時を、じっと待っているに違いない。

私のファンタジーはそんなストーリーを勝手に生み出しておりました。


今日でなければもう二度と<トゥオネラの白鳥>を見ることが出来ないだろう。

是非ともその美しいシーンをこの目で見届けなければ、吹雪の中ここまで彷徨った意味がないと私は思いました。

そして、まるで雪中行軍のように新雪を踏みしめ踏みしめ、大きな噴水の池まで歩んで行ったのです。

「私のトゥオネラ! 死の国の白鳥たちよ! どうぞ待っていておくれ・・・」



しかし、噴水も休止した池のそばでは、いつもの通り、カラスがレジ袋をついばみながら一声だけ。

「カァ〜!」

白銀の世界に大きく鳴り響くだけだったのです。

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追伸
手塚治の短編作品<0次元の丘>に、この<トゥオネラの白鳥>の曲が効果的に登場している。

「戦争中に一家惨殺されたという前世の記憶を持つ少年が、当時の家族と今生で再会する」というお話しなのだが、思春期の頃初めて読んで以来、<トゥオネラの白鳥>の強烈なイメージは私の心に住み着いてしまったみたいである。




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by viva1213yumiko | 2014-02-14 15:00 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

メドゥーサ退治

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寒い日が続いていますね。

皆さんエネルギー枯れしてませんか?

1月2月はどうしても内面的になり、冬期鬱になったりしやすいので、いつも以上に心身のケアが必要です。

冬の乾燥した北風は<邪気>も運びやすいのです。

ふとした弾みで心に魔物が入らないとも限りません。

心の災いには十分注意しましょう。

乾燥注意報に加え、天気予報で<災い注意報>も発表してもらえるとありがたいですよね。


先日、早朝の5時起きをしなければならなかった日。

寝ぼけまなこの私は洗面所の鏡を見つめ、絶句してしまいました。

暗い洗面所の鏡の中に、見てはいけないものを見てしまったからです。

鏡の中・・・

そこにはメドゥーサがいました。

一本一本の髪が、のたうち回る蛇の姿の、あのメドゥーサです。

たっぷりと静電気を帯びた私の黒髪は、空気を掴んで大きく広がり、前後左右にふわふわ浮き上がって来るではありませんか。

そしてそれぞれの髪の毛が、独自の意志を持つ生命体のように勝手に動めいています。

シャー、シャーと異様な音を発し、蛇は私を見つめます。

夜明け前の異様な気配に、血の気は引き、声も出せず、背筋は凍りつきました。

洗面台の前で私は石となり、その場に固まってしまったのです。
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それは明らかにメドゥーサです。

ギリシア神話に出てくる怪物、ゴルゴン3姉妹の末娘メドゥーサだったのです。


ギリシア神話のゴルゴンとは、全身をウロコに覆われ、真鍮の翼と鉤爪、うごめく蛇の頭髪を持つ恐ろしい姿の怪物で、見たものを石に変えてしまう魔力が何よりも恐れられていました。

しかし姉二人と違って末っ娘のメドゥーサは不死身ではなかった。

だから英雄ペルセウスに首を刎ねられ、怪物退治されてしまったのです。


メドゥーサは元々美しい人間の娘だったのだが、海神ポセイドンの求愛を受け入れたためアテナの怒りに触れ、醜い姿に変えられてしまいました。

美しさゆえに恐ろしい怪物とされたメドゥーサは、古来芸術家の創作意欲を掻き立てる魅力的な題材として作品が多く残っています。

またその魔力の強さから魔除けの役割も担い、神殿などの装飾などにもよく用いられました。
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しかしちょっとだけメドゥーサの立場になって考えてみて下さい。

美しいがゆえに誘惑され、嫉妬され、怪物にされ、そして首を刎ねられてしまうのだから、彼女の側から見たら不条理極まる一生です。

メドゥーサが見るものを石にしてしまうほど周りの全てを憎んだのも、考えてみればとても納得出来る話しです。

[怖れ・怒り・憎しみ] に取り憑かれたお気の毒な人生だと言わざるを得ません。

メドゥーサ側から神話を再解釈したら、それは「聞くも涙、語るも涙」の悲劇となってしまいますね。


[怖れ・怒り・憎しみ]

これらは皆んな<愛以外のもの>です。

この世に愛だけが存在しているならば、世界は天国のように調和した美しい場所になるはずでしょう。

本来、神は世界をそういうものとして作り賜うたはずですよね。

しかしなぜか人間界だけはそう単純には行かなくて、ドロドロとした思いをそれぞれが抱え、しかも放射している。

油断してると<愛以外のもの>にすぐに感染し、増殖を許してしまうので、ここはすこぶる要注意です。

<愛以外のもの>は心の闇にドッカと腰を下ろし、すぐに繁殖を始めてしまうというそんな特性があります。

そんな時、鏡を覗いて見てご覧なさい。

あなたはきっと鏡の中に、メドゥーサの本質を見つける事となるでしょう。

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だから自分の心と毎日向き合い、<愛以外のもの>が入り込まないよう予防する事が何よりも大事です。

うがい・手洗い・水分補給・・・

それはインフルエンザ対策とほとんど変わりありません。

メドゥーサ退治は、毎日の小さな心がけから始まるのです。




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by viva1213yumiko | 2014-01-16 19:44 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)