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蝶々夫人

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明治から昭和までの人物で、最も世界に名の知れた日本人女性とは、一体誰でしょうか?

樋口一葉? 平塚らいてう? 美智子皇后? オノ・ヨーコ? 黒柳徹子?

う〜ん、ちょっと違うかなぁ〜

世界で最も有名な日本人女性は・・・

それは多分、誰もが知ってる、あの<蝶々夫人>なのかも知れません。


<蝶々夫人>は19世紀末の長崎が舞台のお話しです。

ちょうど日清戦争の頃のお話ですね。

米海軍士官ピンカートンは女衒のゴローの紹介で、現地妻として蝶々さんを身請けする。

長崎領事のシャープレスは花嫁が真剣なのを見て、軽い気持ちで結婚式を上げるピンカートンを諌めるが、本人は意に介さない。

蝶々さんは親戚とも縁を切り、キリスト教に改宗してまでピンカートンの愛を信じている。

時は過ぎ、ピンカートンが帰国してから早3年。

いつまでも待ち続ける蝶々さんの姿に、シャープレスも女中のスズキも心を痛めている。

その時、米国軍艦の砲声が鳴り、蝶々さんはピンカートンが自分のもとへ戻って来たと喜ぶ。

しかしピンカートンはアメリカで結婚して、夫人と一緒に来日していたのです。

それを知った蝶々さんは「恥に生きるより名誉に死ぬ」と決心し、子どもを夫人に託して自らの短剣で自刃する。


長崎を舞台に繰り広げられる現地妻の悲劇で、身勝手な米国軍人ピンカートンへの憎しみと、健気な日本人女性への同情とが交錯し、日本人にとって愛憎半ばする作品です。

大体<蝶々夫人>なんてタイトルからして、ヒロインは30代位の上品な大人の奥様をイメージしますよね。

しかし、彼女が自ら命を断ったのは18才という若さなんですよ〜

そして身請けされたのは、なんとたったの15才!

時代風俗が違うとはいえ、これでは幼な妻を通り越し、児童買春というか、もう犯罪のレベルですよね。

しかし哀しいいかな、蝶々さんと同じような立場の女性は今もたくさんいるし、ピンカートンと同じように身勝手な男性も世界にはたくさんいる。

だからこれは古今東西どこにでもあり、今もあり続けるお話しです。

<蝶々夫人>は単に日本を舞台にした異国趣味のオペラなのではなく、普遍的テーマのある社会派ドラマでもあった訳なんですね。


実際、蝶々夫人には実在のモデルがいたらしいですよ。

「ロシアの海軍士官に捨てられた日本人女性がいた」と、日本滞在中に噂を耳にした姉の話しから着想を得て、小説家が物語を書き上げたと言われてます。

プッチーニがそれをオペラ化したのが1904年。

ミラノスカラ座での初演以来、今日に至るまで世界中で上演され、優しく健気で芯の強い日本人女性のイメージを定着させてしまったんじゃないでしょうか。

今日でも世界で未だに日本人女性の評価が高いと言われるのは、このオペラの影響もあると思います。


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   ある晴れた日

   海の向こうに一筋の煙が登って船が見える

   港に入って来ると礼砲がとどろく

   私は丘の端で待っているの

   そうすると人々の間から

   ひとりの人が私の方にやって来て

   私のことを「蝶々さん」と呼ぶの

   でも私は隠れるの

   そうするとあの人は私のことを

   「美しい桜の香りのような奥さん」と呼ぶわ

   これはきっと実現するわ

   私は信じているの




ピンカートンの帰りを待ちわびる蝶々夫人が歌う、人気アリアです。

芸者であった蝶々夫人は、自分がピンカートンにとって一時的な現地妻である事をどこかで理解しながらも、愛する人の自分への愛情を信じ続けます。

あまりの一途さに、彼女の空想シーンのはずが現実の事のように感じられ、またそこが切なく物悲しいですね。

というか、この段階の蝶々さん、かなり妄想進んじゃってます。

いわゆる精神的危機の状態なんじゃないかしらね?

現代だったらそのまま確実にストーカー行為へと進むんじゃないでしょうか。


<一途すぎる恋>

それは美しいけど厄介な存在です。

一途な恋はそれだけヤケドしやすいし、痛みと傷跡だけを残し、幻のように過ぎ去って行きます。

古今東西、哀しいかなそういうものなのです。

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ところで蝶々さんの死後、ピンカートン夫妻に引き取られアメリカで成長した息子は、その後どうなったのか気になりませんか?

原作者ジョン・ルーサー・ロング氏は、未発表の<蝶々夫人>の続編を残して亡くなったと言います。

その続編によると、蝶々さんの自殺は未遂に終わっていて、その後は旅館の女将をしながら細々と生き延びるらしいのです。

ピンカートンとケート夫妻に引き取られた息子、Jr.バタフライは20年後に日本に戻って来て、実の母とは知らずに蝶々さんと出逢うのだが、しかし・・・

と、そういう物語になっているのです。(興味のある人は調べてみて下さい)

三枝成彰氏の新作オペラ<Jr・バタフライ>では、舞台は第二次世界大戦の時代に変わっていて、記者となって日本に帰って来たJr.バタフライが日本人女性と恋に落ちるのだが、戦争によってその仲を引き裂かれ、彼女は長崎で被爆して死ぬという、これまた救いようのない悲劇が待ち構えているのです。


わずか2才半の時、母親と劇的な分かれ方をし、義母によって育てられた混血児Jr.バタフライ。

彼が母親に対する大きな葛藤を抱えて、異国で孤独に成長したであろう事は容易に想像されます。

複雑な母親コンプレックスを乗り越えない限り、彼の魂の救済はあり得ないのではないでしょうか。

ちょっと想像してみただけでも、彼の恋愛や結婚には大きな困難が待ち受けていると思わないではいられません。

<Jr.バタフライ物語>もさらに波乱を呼んで、結局は<バタフライ家の悲劇>という大河小説へと発展するのかも知れませんね。


ドラマに登場する人物の、その後たどった人生を想像してみるというのも、オペラの楽しみ方のひとつと言えるでしょう。




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by viva1213yumiko | 2014-02-21 17:16 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

トゥオネラの白鳥

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先週の積雪27㎝の大雪の日。

どうしてもこなさなければならない仕事があったので、レインジャケットの中にダウンを着込み、帽子、マフラー、手袋、マスク、防寒ブーツに靴下二重履きの万全の態勢で出かけて行ったのです。

都会では滅多にない大雪なので、気分はウキウキと子どものように高鳴り、脳内エンドルフィン急上昇のせいなのか、わざわざ遠回りしてでも美しい雪景色を見たくなってしまいました。

そして人っ子一人ない、犬の子一匹もいない、猛吹雪の代々木公園を、ひとり彷徨う事となったのです。


そこはまるで別世界。

完全に東京ではなくなっておりました。

横殴りの風が積もったばかりの新雪を巻き上げ、雪女の亡霊とともに駆け抜けて行く。

地嵐のような風雪を避けるため、思わず樹木の多い場所に身を寄せる。

雪が都会の喧噪を見事に吸収し、そこはとてつもなく静かな林でした。

どこからだろう?

雪を避け避難した野鳥たちの、軽やかで楽しげな声が聞こえて来る。

こんな吹雪の中、一体鳥たちはどこでさえずっているのだろう?

幹の上方の鳴き声の辺りに視線を上げてみました。

しかし風にたわんだ枝から、ドサドサと雪が落ちるだけ。

そして辺りに、また一層の静けさが甦るのでした。


「ここは東京じゃない! まるで極北! ツンドラの大地を行くようだ!」

マインドがそう呟いた瞬間、私の空想は大きく翼を広げ始めました。

頭の中に古ぼけた蓄音機があらわれ、レコード盤の上にゆっくりと針を降ろしたのです。

そこから流れ出した旋律は・・・


   [近寄るものを寄せ付けない、凛とした厳しさ]


   [この世のものとは思えない、冷たい静寂の気配]


ん? この曲、聞き覚えがある。

レコード盤から流れて来たのは、シベリウスの交響詩<トゥオネラの白鳥>だった。

死者の悲痛な叫びのような、魂を揺さぶる重~い旋律です。


「そうだ、トゥオネラだ! ここは黄泉の国、トゥオネラだったのか!」


大都会の真っ只中。

頭の中でリピートされるシベリウスのメロディを思い起こしながら、私はひとり代々木のトゥオネラを旅する人となっていたのでした。

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北欧フィンランドの作曲家シベリウスは、祖国の英雄叙事詩<カレワラ>のオペラ化を望み、作曲に取りかかっていました。

その願いは壮大すぎて、結局断念される事となったのですが、出来上がった序曲は交響詩<4つの伝説・レミンカイネン組曲>という作品にまとまり残されたのです。

<トゥオネラの白鳥>はその二番目の曲なのですが、とても有名で単独で演奏される事も多いのです。

英雄レミンカイネンは花嫁を得るため、その母親から3つの試練を授けられるのですが、2つまでやり遂げたあと最後に残ったのが「トゥオネラ川の白鳥を捕まえる」という難題だったのです。


死の川トゥオネラ・・・

トゥオネラはこの世とあの世との境目の川で、そこに住む白鳥は死者の魂をかの地へ導く、妖しく美しく恐ろしい存在なのです。

シベリウスはその死のイメージを、美しく幻想的な曲にして見事に表現しています。


霧の中を行くような弦の響き。

この世のものとは思えないただならぬ気配です。

白鳥の主題の旋律は死者の悲痛な叫びのように、重く静かに魂を揺さぶって来ます。

黄泉の国のトゥオネラ川に漂う白鳥は、優雅でありながら儚く、現実のものとも幻とも分からないイメージなのですが、その映像がはっきり目に浮かぶような不思議な音楽です。



   死してなお熱き想いの醒めぬ者は、
  
   死の川トゥオネラの白鳥となりて、
  
   ただ一羽、
  
   凍てついた水に心を癒す



主人公レミンカイネンが狩りに失敗して死んだあとの、静まりかえったトゥオネラ川を泳ぐ、優美な白鳥の姿を彷彿とさせます。

そこには自然界の美しさと恐ろしさが共存しているのです。

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代々木公園には大きな噴水のある池があります。

だから白鳥たちはきっとそこで羽を休めているに違いない。

そして死に行く者たちの準備が整うその時を、じっと待っているに違いない。

私のファンタジーはそんなストーリーを勝手に生み出しておりました。


今日でなければもう二度と<トゥオネラの白鳥>を見ることが出来ないだろう。

是非ともその美しいシーンをこの目で見届けなければ、吹雪の中ここまで彷徨った意味がないと私は思いました。

そして、まるで雪中行軍のように新雪を踏みしめ踏みしめ、大きな噴水の池まで歩んで行ったのです。

「私のトゥオネラ! 死の国の白鳥たちよ! どうぞ待っていておくれ・・・」



しかし、噴水も休止した池のそばでは、いつもの通り、カラスがレジ袋をついばみながら一声だけ。

「カァ〜!」

白銀の世界に大きく鳴り響くだけだったのです。

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追伸
手塚治の短編作品<0次元の丘>に、この<トゥオネラの白鳥>の曲が効果的に登場している。

「戦争中に一家惨殺されたという前世の記憶を持つ少年が、当時の家族と今生で再会する」というお話しなのだが、思春期の頃初めて読んで以来、<トゥオネラの白鳥>の強烈なイメージは私の心に住み着いてしまったみたいである。




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by viva1213yumiko | 2014-02-14 15:00 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

ショパンの湖

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知人のピアニストA・Y嬢のリサイタルに行き、ピアノ演奏を堪能させて頂きました。

ロマン派の作品を得意とする彼女。

その演奏の8割までがショパン作品だったので、我々素人にとってありがたいプログラム構成でした。


「お姫様抱っこの時は、間違いなく絶対こういうドレスよねぇ〜」

きっと女子なら誰もがそう夢見る、ふわっとしたローズピンクのドレス。

あんなドレス着て華麗にピアノが弾けるなんて・・・何とも羨ましい!

鍵盤を叩くたびにアップの後れ毛がフワフワ揺れて、とびっきりロマンチックなリサイタルなのであります。


ロマン派とは、ショパン・リスト・シューマン・メンデルスゾーンなど、主に18世紀~19世紀の作曲家の事を指します。

それまで続いていた宮廷風の古典様式から一歩進んで、感情や感覚・直感から来る、より深層の真実を暴き出すような芸術様式の事をロマン派と呼ぶのだそうです。

激しく涌き上る激情や、苦痛も含めた広義の感情のロマンなので、決して優しく夢見がちなロマンティックな音楽の事だけではありません。

狂気じみた情念や、嫉妬やエゴや、苦悩や慟哭。

そんな生々しい感覚をも受け入れた末の、人間性の神髄を表現するという意味での<ロマン>なのです。


ショパンは<ピアノの詩人>と言われてるけど、今回改めて聞き直してみて、なるほど確かに言い得てるなと思いました。

美しいけれどちょっと冷徹すぎて、何だか危なっかしい側面もある、詩人独特の観察眼があります。

シューマンはそれを「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」と評したんだそうです。

うまい事言うもんだなぁ、と感心してしまいました。

そこでちょっとおこがましいですが、ショパンの創作イメージをあえて私流に例えてみるとこんな感じになります。


   よく晴れた日の昼下がり

   あなたはひとり、湖にボートを漕ぎ出す

   水深100mはあろうかという、恐ろしく透明度の高い湖だ

   そして湖の真ん中で、

   オールを降ろし深呼吸ひとつ

   ギシギシと揺れるボートから、こわごわ湖底を覗き込む


   その時、魔法のように次々と浮かび上がった過去からのイメージ

   郷愁・倦怠・享楽・情念・・・

   浮気心・後悔・恩寵・救済・・・

   そんな真実の感情が音符と共に浮かび上がって来る

   それらひとつひとつを、優しく両手ですくい五線譜の上にそっとこぼす

   
   泣き笑いしている自分を、私は湖面から見降ろす
   
   マズルカやノクターンやポロネーズ
   
   運命の輪だけが静かに回転している
   
   
   近いようでいて遠い場所のメロディ

   それがショパンがすくいあげたメロディ


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湖の底のシャンバラの栄枯盛衰を、あなたは映画を観るように覗き込む。

すると、イメージクリップのように色々なものが見えて来るのです。


それは良く晴れた日でないとだめですね。

ボートを出すのは<穏やかな気持ち>の昼下がりでなければならなりません。

恋に酔いつつ、なおかつその官能を人ごとのように冷静に味わう。

そういう境地は、<穏やかな心>にしか宿らないからです。


我々は日々のルーティンで、日常の雑事で、不必要な雑念で、透き通った湖の存在を忘れてしまっています。

けれども実は、湖には遠い昔に沈んでしまった寺院や花園が存在していて、あなたに発掘されるのを今もじっと待っているんですね。

ショパンのロマンチシズムは、忘れていたあの湖を思い出させます。

そして「ねぇ、また今日辺り、ボート出してみましょうよ」と、時折誘って来るのです。


[感情とは、やって来て、そして過ぎ行くものである。 だから、感情に執着してはならない・・・]

仏教でもこのように教えています。

愛と憎しみ・喜びと苦悩・嫉妬と思いやり

そういった相反する両極の感情をのり超えて、新しい次元の出現する辺りから、いつでも美しいものは生まれて来るような気がします。


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湖の底のシャンバラの栄枯盛衰を、あなたは映画を観るように覗き込む。

すると、イメージクリップのように色々なものが見えて来るのです。


誰もいない舞踏会・虹色のプリズム・人々のざわめき・家族の肖像画・青い戦争の時代・物悲しい舟歌

初めて子犬を抱いた日・兵隊たちの望郷・一途すぎた恋・甘い白日夢・思いがけない贈り物

多分それは、形にならないそういうものたちの事なのです。


優雅な手招き・感傷的なワルツ・ドレスの衣擦れの音・仲直りの口づけ・安堵して眠る子供・寺院の鐘の音・もう手に入らない幸福

そんな形にならないものたちの事だ。


きっと神秘がひも解かれるその日には、そういうものたちがたくさん顔を出して来るのでしょう。

その時を湖は今も静かに待っているのです。




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by viva1213yumiko | 2013-12-04 14:23 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

ファム・ファタル

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ファム・ファタルとは、男を惑わす宿命の女の事を指します。

男と運命的な出逢いをし、出逢った事によって男の運命をまったく変えてしまうような数奇な存在の女。

男を快楽の園へと導き、そして手放し破滅させる魔性の女の事ですね。


雰囲気がどこか謎めいていて、男がまだ知らぬ未知の世界へと誘ってくれるようなそんな存在。

憧れと怖れの入り交じる、感情の深いレベルから手招きされるような、抗しがたい魂の衝動。

ファム・ファタルとは男の運命を決める、ある意味不吉な女でもあるのです。


この、男にとって<極上の悪夢>のヒロイン像は、多くの芸術家たちにインスピレーションを授けたようで、オペラ・バレエ・芝居・小説でたくさん主題として扱われています。

特に19世紀末の欧州では、世紀末芸術家たちが作成した妖婦のイメージが発信源となり、広く一般に行き渡り流行したといいます。

[長くたらした髪・ミツロウのような肌・血のように赤い唇・とろんとした瞳]

こんな感じのファッションや化粧法が大流行したんだそうです。


これらの世紀末ファッションは、既にこの時点で完成の域に達していたのか、秘密めいたデカダンな意匠として現代に至るまで通用しています。

週末の原宿辺りでは、今日でも容易く観察する事が出来ます。


<カルメン> <サロメ> <マノン>

オペラでもバレエでも人気演目の中には、ファム・ファタルが繰り返し登場して来ます。

しかし物語を深読みしても、どうしても理解出来ない事があるんですよね。

それは、「なぜ男は悪女に惹かれるのか?」という点なのです。

本日はそこら辺に注目してみたいと思います。

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[ファム・ファタル : 破滅すると分かっていながら、男が恋にのめり込んで行かざるを得ないような魔性の魅力を持った女]   ラルース大辞典





一説によると、すべての少年は大人に成長するある段階で、一度は悪女タイプのファム・ファタルに惹かれるのだそうです。

破滅しそうなほど命取りの悪女のイメージ。

それが男性の心の成長に、なぜ必要だと言うのでしょうか?


例えば<カルメン>です。

聖職者志望だったドン・ホセを、誘惑して骨抜きにし、痴話げんかを繰り返し、盗みを働かせ、前科者に貶めて、結局殺人者にまで堕落させる。

もし自分がドン・ホセの身内だったなら、あんな性悪女とは一刻も早く切れさせたいですよね。
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考えてみれば生に対し空虚感・倦怠感を持ち、享楽的傾向のカルメンと、素朴な田舎者ドン・ホセとでは、最初から接点のない組み合わせじゃありませんか?

全然釣り合いが取れてませんよね。

しかし運命とは皮肉なものです。

運命が送り届けて来たのは、ドン・ホセを不吉に振り回す魔性の女。

彼が最も怖れ、そして憧れてもいる悪のイメージを、具現化する女性だったんですから・・・

カルメンの一体どこに、ドン・ホセは惹かれたのでしょうか?


ユング心理学では、男の心にあるすべての女性的傾向が人格化されたものをアニマと呼んで、男性の心の成長に多大な影響を与えていると定義しています。

言うなればアニマとは、男の中の隠された女性性の事なんですよね。

通常なら理知的・論理的な左脳思考で物事を解釈する男性の心に、渾然としたムードのようなものがムクムク涌き上る時があるのだそうです。

その不可解な情動こそが、非合理的なものへの感受性を研ぎすまし、直感力を育み、愛する能力を目覚めさせると言われています。


純朴で母親思いのドン・ホセの心は、実は表向きとは違い、束縛を解き放ち自由に生きたいという欲求ではち切れんばかりに膨らんでいたのかも知れません。

ドン・ホセのアニマは、潔い生き方をするカルメンというアウトサイダーに簡単に投影されてしまいました。

本当は彼自身が何より潔く生きたがっているのだが、家庭の事情もありそう簡単には行かず、自分を抑えている。

だからこそ望んでも果たせそうにない自分の夢を、まるで代弁して生きてるようなカルメンに、憧れ魅了され執着してしまうのです。

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実は誰の心の中にも、束縛を説き放ちたいという自由への欲求があります。

だから「自由か、死か!」というアウトサイダーに憧れる気持ちがある。

誰の心にも、カルメンのように<我を忘れるくらい熱く燃えてみたい欲求>が眠っているのです。

その欲求に無自覚なまま異性と運命的な出会いをすると、とてつもなく激しく、身も心も焼き尽すほど危険な恋愛へと踏み込む可能性が潜んでいます。

そして恋という名の天国と地獄を、のぞき見る幸福を味わう羽目に陥るのです。

恋とはやはり魔物です。

うっかり近ずいて大怪我しないよう、ご用心ご用心。


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追伸
あなたがカルメンを目指していても、ファム・ファタルとはあくまで周りの人間が評価する言葉。

「私ってファム・ファタルなの」と自分で名乗ったらそれで一巻の終わりになるので、くれぐれも気をつけて誘惑してみましょう。




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by viva1213yumiko | 2013-09-24 22:16 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

バレリーナは甲美人

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パンプスってありきたりの定番だけど、女性の足を一番奇麗に見せてくれる靴ですよね。

パンプス・シューズはここ一番、キチンとした装いを要求される時、頼りになる存在です。

けれど、足の甲の部分がむき出しで引っ掛かりがなく、とても疲れやすいのが問題です。

もともと貴族が宮廷内で履いた靴なので、屋外を歩くために作られていません。

晩餐会や舞踏会の時、足先からエレガントに振る舞う、言わば見せるための靴なので、実用には向かないのです。

だから現代の働く女性がパンプス・シューズで通勤するのは、考えてみるとかなり不自然な行為で、足裏マッサージやリフレクソロジーがこれだけ盛況なのも、パンプス通勤の功罪と言えるのかも知れません。


同じパンプスの中でも極め付きまで甲を見せたデザインを、バレエ・シューズと呼んでいます。

バレエ・シューズとは、バレリーナが踊る時、足先の動きをみせるための靴。

踵や足裏の繊細な動きを、靴を履いたまま表現出来るので、エレガントを足先で表現するバレエ芸術には必携のものです。

そして舞台では極限まで天に近づくため、つま先立ちのトウ・シューズ(ポワント・シューズ)を履くのです。

1㌢でも高く伸び上がり、重力からの解放を目指したバレリーナたちは、この世とあの世を行き来する、美しい妖精や天使と同じような存在だと定義されました。

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このトウ・シューズを履いた時、最も美しいとされるのは足の甲の部分がフラミンゴのくちばしのようにアーチを描き湾曲する事。

俗に「甲が出る」といわれるラインです。

一般女性は、<足の指>や<足の裏>を意識する事はあっても、<足の甲>の美しさなんて普段考えもしませんよね。

だけどバレエの世界ではこの<足の甲>がものをいいます。

バレリーナを目指す子供たちは、ストレッチャーで甲を引っ張り痛い思いをしながら、美しいアーチ型の甲を目指します。

それだけバレリーナにとって足の甲は大事なパーツとなっているのです。


和服の似合う人って大体<うなじ美人>ですよね。

水着を着るなら<くびれ美人>かな? 

セクシーさでは<ブロンド美人>

ミステリアスな<白痴美人>

色んな美人がいるけれど、バレエの世界は<甲美人>が求められるのです。

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日本人の人気ダンサー上野水香さんは、この<甲美人>の代名詞みたいなバレリーナです。

世界甲美人コンテストなんてものがあったら、グランプリ取れるんじゃないかと思えるほど、惚れ惚れする甲なのです。

もともと手足が長く、日本人離れしたプロポーションの持ち主なのですが、その彼女がポワントでポーズすると、甲は柔らかい湾曲を描き彼女の重力をバランス良く吸収し、美しくしなるフラミンゴ・ラインを描くのです。

寺院のドーム屋根のように、数学的強さと美学的バランスを兼ね備え、観るものに崇高な哲学さえ感じさせる甲だと言えるでしょう。

まるで足の先に情緒が宿っているようです。

舞台人なら手先・指先、もしくは表情で感情表現して、情緒を感じさせる人は多いでしょうね。

だけど、足先に情緒がある人って滅多にいませんよ。

上野さんの甲には奇跡が宿るのです。

美しく繊細かつ強靭な、神の恩寵を垣間見せる、奇跡の甲なのであります。



 [神は細部のデティールに宿りたもう]

<甲美人>のバレリーナたちを見るたび、言葉にならない何かが万華鏡のようにきらめき出して、結果、私は沈黙せざるを得なくなります。

[世界中のあらゆるものに、あまねく神は偏在する]

そんな大いなるインスピレーションに、心奪われてしまうからなのです。




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by viva1213yumiko | 2013-07-05 21:05 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

ミニチュアシアター<The Ice Book>

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渋谷円山町にKINOHAUSUという映像に関する総合施設があるのですが、先週末そこで<キノコン>というイベントが催されました。

映像メディア・マネジメントに関心の高い、スタッフSさんから紹介を受け、この「映画館との新しい出逢いを体験できるお祭り」に行ってみました。

KINOHAUSUの「KINO=映画」と、英語の接頭辞「CON=ともに・一緒に」から生まれたイベント<キノコン>は、タイトル通り今までにない映画・映像体験ができ、新しい何かと何かがきっと繋がるような、そんな体験が待っている催しなのだそうです。


まずは<キノ×コンセント>と称された、アートシーン風の<映像インスタレーション空間>に足を運びます。

コンクリートの大壁や、額縁、鳥かごの中、はたまた覗き穴の向こう側・・・

大小様々なサイズのモニターでレイアウトされた会場は、九里洋二氏のアートアニメーションが延々と上映されていて、さしずめ<映像実験ラボ>といった趣きです。

しかしアニメの作風がレトロポップなせいか、<インスタレーション空間>といっても小難しくアートアートしてなく、お茶やお菓子を楽しみながらリラックスして観賞できます。

ここは言葉や世代を超えて人と人とをつなぐ実験の場なのだそうで、赤ちゃん連れのお母さんなども気楽に観に来てました。

なぜだか久里洋二氏のイラスト刻印入り大福あんぱんが販売されてるのが、またなんとも可愛らしい。

ちなみに大福あんぱんとは、あんぱんの中からまんまと大福が現われる、遊び心満載のチャーミングかつ美味しいものでした。

映像芸術と大福あんぱんのコラボレーション・・・

私にはこれもかなり実験的に映りました。

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その他、<映画女子会のすすめ>という昭和30~40年の日本映画の上映会&講座や、<映画合コン><映画一箱古本市>など、映画好きにはちょっとそそられるユニークな催しが用意されていて「へぇ〜イマドキの映画館って何だか面白いんだなぁ」っていう印象です。


中でも私が一番興味を引かれたのは、飛び出す絵本を使って映像投影したミニチュアシアター<The Ice Book>でした。

プロジェクションマッピング(映像投影)というのは、舞台スクリーンや大きな建造物などに映すものだとばかり思っていたので、その逆を見事に突かれて「やられた!」って感じです。

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一枚一枚手で切り出した精巧な切り絵。

それを真っ白なポップアップブック(飛び出す絵本)に仕立て、その絵本の舞台に映像を映し、英国人アーティストのデイビー&クリスティン=マグワイア夫妻が、紙芝居の様に本のページをめくって、物語を見せて行く。

小さな絵本の中の小さな舞台を観賞するので、芝居小屋の中に入れるのは一回につき10名程度。

隣の人と肩を寄せ合い、息をひそめ、ワクワクしながら絵本を覗き込みます。

チラシには「かつて人が見世物小屋で初めて映画に出逢った時のような親密な時間を味わえるはずです」と書いてあったが、本当にそんな感じ。

私の子供時代は、自転車に乗った紙芝居のおじさんがまだ存在していて、公園や広場で子供達の人気をさらっていたが、その時のワクワク感を彷彿させるものがあるのです。



物語は氷の国のおとぎ話し。

静かなモノクロームのサイレント作品で、セリフもなく、芝居はマイムやダンスで表現します。

静謐なピアノのBGMに乗り、19世紀風の衣装をまとったミステリアスな氷の貴婦人が登場すると、その小さな幻想の世界に、知らず知らず誘い込まれてしまいます。

飛び出す絵本が語りかける、飛び出す紙芝居ドラマ。

顕微鏡で覗くと雪の結晶の中に完璧な美を発見できるように、小さな絵本の中に繊細で儚い夢の世界が存在し、驚きと共にその世界の運行を見守る証人になってしまうのです。


これは「ノスタルジックな錬金術だ」と、私は思いました。


魔術師が操る魔法に見え隠れする真実。

パーティー後のけだるい眠気。

どこかで置き去りにして来てしまったような感情。

甘酸っぱかったようなもどかしい匂い。


膨大なノスタルジアの記憶庫を、ふとした弾みに垣間見てしまったような、そんな真冬の午後でした。



キノコン

リンク先<キノ×コントラスト>にて<The Ice Book>動画掲載




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by viva1213yumiko | 2013-01-21 19:34 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)

初釜入門・後編

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小休憩の<中立>でちょっと一息ついた後、お茶会は<懐石>へと移ります。

正客から順に銘々の膳が手渡しで運ばれ、亭主の「どうぞお箸をお取り上げ下さい」という言葉で会食が始まります。

おめでたい鶴の盃でお酌して頂くと、美しいお造りや口取り・お椀などが順を追って運ばれて来る。

その彩りと繊細さには感動してしまいます。

しかしここにも食事の作法があり、美味しいからといってパクパク食べる訳にはいきません。

箸の上げ下げ、大皿からの取り分け方、そして懐紙の上手な使い方。

<料理を残さない><器を清める><箸を落とす音が終わりの合図>などの決まりごともあります。

ひとつひとつの仕草にこんな意味があるのだと知り、改めて自分の所作を意識せざるを得ません。

これは、普段の食事にも望むべき姿だと思いましたね。

今行っているひとつひとつの行為に意識を合わせ、集中し、没頭し、そのものになる。

見る・聞く・嗅ぐ・触れる・味わうの感覚を、フル回転させ日々の食事をしたなら、毎日が新鮮で、たぶん人生から退屈という文字は消えて無くなってしまうでしょう。

それは幸福への近道とも言えるんじゃないでしょうか。

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そして<懐石>後の<中立>をはさんで、最後の<薄茶>へと突入します。

正客から順に席につくと、<干菓子>が盆に乗って登場しました。

ひょうたんや羽子板など、正月らしい愛らしさの<落雁>です。

サァーッと上品に溶ける<落雁>の余韻を味わいつつ、師匠のお手前を待つのです。

<薄茶>は<茶筅>を動かすことによって空気を取り込み泡を立て、ソフトでまろやかな風味が持ち味のお抹茶なので、さっぱりとした<干菓子>と相性ぴったりです。

<薄茶>は各人に点てられるので、三口半で飲み切ってしまえば良く、初心者でも比較的ハードルが低いのではないでしょうか。

茶碗は自分で取りに出て、飲んで拝見し返すのですが、ひとつひとつの動作のたびに、他の客や亭主に礼を忘れません。

そしてまた、お道具の拝見。

道具はどれもみな繊細な造りをしているので、両手で大事に扱います。

恥ずかしながら、私の無骨な手には<茶杓>など耳かき同然に映ります。

どうにもコツがつかめず、これが一番戸惑いました。

薄茶器の<棗>や<茶杓>について、また<茶碗>の作者や窯元について、正客から質問が繰り返され、亭主はそれに答える。

短い会話には主客の見識や品位がまじまじと出てしまうので、通り一遍の約束事をこなせればそれでいいというものでもありません。

そこには不思議と、人の真実が見え隠れしてしまうのです。


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茶道に何より大切なのは、形式そのものではなく、それを追う過程で雑念が取れて、無念無想になれることだと思うのです。

[自他・美醜・善悪の分別を超えた心境に行き着くこと]なんじゃないだろうかって気がしました。


なんでも「あの人にはお茶がある」という表現があるんだそうです。

それはお点前が出来るかどうかということだけじゃなく、お茶の心・もてなす心を常日頃持っているかどうか、ということなのだそうです。

日常の生活で季節の移ろいに目を向け、他者に心を向け、自分自身にも眼を向けて毎日を過ごすことの積み重ねが、きっとお茶の心を育む道なのだろう思い知らされた次第であります。



貴重な体験をさせて頂き、本当にありがたいことだらけだった、私の初釜入門でありました。



 
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by viva1213yumiko | 2013-01-17 13:13 | 季節・行事 | Comments(0)

新訳・歓喜の歌

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第九のことをWebで調べているうちに、<歓喜の歌>を自分なりに解釈し、翻訳してる人がいる事が分かりました。

それがとっても楽しくて素敵だったので、紹介したくなりました。



まずは大阪弁バージョンからどうぞ。

IROM BOOK/雑文(音楽編)ベートーベン第九歓びの歌




   <喜びの歌> 

   おいおい、そんな歌 ちゃうやろ
   もっともっと気持ちのええ、おもろい歌があるんとちゃうん
   そんな歌、 歌おうやないか

   わぁ嬉しい。 神さんの火が光っとる
   あそこにいるのはユートピアから来た娘さん
   そうや、 僕らみんなちょっとばかり酒をひっかけて
   天にある楽園に行きたいもんや
   世の中きびしいよってに 欲しいもんにはなかなか手が届かん
   そやけど、 あんたの凄い力で
   もういっぺん僕らのとこへ呼び寄せてくれや

   あんたの優しいふところで飲み明かしたら
   そう、 みんな誰でも友達になれるんや
   一生懸命頑張って働いたやつは みんな僕らの友達やんか
   友達の友達は みな友達なんや
   そいで、かわいい娘と一緒に暮らせたら ごっつうれしい
   それこそ歓喜やで

   そう、 友達とか恋人とかの心を
   一つも つかみ取らんかった野郎はここから帰れ
   黙って いね いんで泣いとけ

   この世にいる奴はみんな喜びを自然のオッパイから飲んどるんや
   天使はミミズにもオケラにも喜びを与えたんや
   大空を渡る太陽みたいに
   勝利と喜びの道をみんなで歩いて行こやないか

   みんな抱きしめたいわ
   もう全世界の人に投げキスでもしたろかいな
   この星空の上に神さんはきっとおるんや
   分かるか、天の上に神さんはおるんやで
       天の上に 神さんは おるんやで
       天の上に 神さんは おるんやで
 
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そして九州弁バージョンもあります。

第九「歓喜の歌」北九州バージョン




   <歓喜の歌> 

   ちょ、そんな歌やなかろ
   もっといい感じの、楽しい歌があろうもん
   そんな歌、歌おうや

   よかねぇ、神様の火が光っとう
   あら、楽園出身のお嬢さんやん
   俺らもちょっと酔いちくろうて
   天上の楽園とかに行ってみたいっちゃね

   世の中っちゃ厳しいけさ、なかなか手がたわんったい
   ばってん、アンタのすげぇ技で
   もっぺん俺らんとこに呼んでくれんね

   アンタに甘えて飲み明かしたら
   みんな友達になるとよ
   でったん頑張って働いた人は俺らの友達やん
   その友達の友達はみんな友達なんよ
   そこで、いい娘と暮らせたりしたら、バリ嬉しいやんか!

   そう、友達とか恋人とかの心をさ
   ひとっつもゲット出来んような、しょーもない奴はもう帰れっち感じ
   黙って消えれ 独りで泣きよきーや

   この世におる人はみんな生まれながらに喜びエキス吸っとうと
   天使は虫けらにまで喜びを与えたんよ
   
   大空を渡る太陽みたいにさ
   勝利と喜びの道をみんなで歩いて行こうや

   みんな抱きしめちゃる!
   世界中の人にキスしちゃる!
   この星空の上に神様は絶対おるとよ
   よか? 天の上に神様はおるっちゃけん
 
 
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なぜだか分からないけど、<歓喜の歌>も方言にするとめちゃくちゃ感じが伝わりますよね。

生活感があって不思議と心暖まります。


あなたも是非、出身地の言葉で<歓喜の歌>を表現してみてはいかがでしょう?

日本全国で<方言版・第九演奏会>が開催されたら、新しい町おこしになるかも知れませんよ。




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おまけ:
大工の合唱団による<第九>ってのも結構いいかもね。

   


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by viva1213yumiko | 2012-12-25 14:52 | おとぎ話・こぼれ話 | Comments(0)

歓喜の歌

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ベートーベンのパワフルでドラマチックな交響曲の中で、その頂点とも言えるのが第九交響曲です。


<闘争を経ての勝利>というか、<苦悩を超えての歓喜>とでもいうか・・・

<暗>から<明>へのドラマツルギーを一挙に駆け登る、空前絶後の大作です。


恐怖と絶望に満ちた第一楽章から、事態がさらに深刻化する悪魔的な第二楽章。

崇高で瞑想的な光が見え始める第三楽章。

回想、否定、そしてついに歓喜へと至り、高らかな理想が歌われる第四楽章。


改めて聞き直してみると、凄まじい作品です。



第九演奏会は年末の定番なので「今更ねぇ・・・」って感じがしてたんですが、今年はちょっとした気づきがありました。

第四楽章の合唱部分はシラーの詩からの抜粋なのですが、まずはその対訳歌詞を読んでみて下さい。



   <歓喜の歌>
   
   おお友よ! このような音ではなく
   さらに心地よく さらに喜びに満ちた歌を共に歌おうではないか!

   歓喜 
   それは美しい神々の霊感
   天上の楽園に住む乙女
   私たちは炎のように酔いしれて
   崇高な歓喜の神殿に登る
   
   あなたの魔法の力が 
   時流に厳しく分け隔てられていたものを 再び結びつける
   すべての人々は あなたの優しい翼のもとで
   みな兄弟となる

   互いに友となる幸運に恵まれた者よ
   心優しき妻を得た者よ
   こぞって歓声に声を合わせよ!
   
   そう この世にたったひとりでも
   心を分かち合える友のいる者は みな残らずに
   そして 不幸にもそれがかなわぬ者は
   泣きながら この輪からひっそり去るがよい

   あらゆる生き物は 
   創造主の乳房から歓喜を飲み
   善人も悪人も すべての人々が
   創造主のバラの踏みあとをたどる
   
   喜びは 私たちに接吻とワインを与え
   死の試練を経た 友を与えてくれる
   至福は 虫けらのように弱い者にも与えられ
   天使ケルビムが 神の御前に立つ

   天空の星々がきらびやかに
   飛び交う様子さながらに 
   喜々として
   兄弟たちよ 君たちの道を進め
   喜々として 
   勝利をめざす英雄のように

   諸人よ! 抱き合おう 
   この口づけを 全世界に!
   兄弟たちよ 星空の上には
   愛する父が住んでいるに違いない

   諸人よ ひざまずいているか?
   世界よ 創造主を予感するか?
   星空のかなたに 彼を探し求めるがよい
   星々の彼方に 彼は必ず住みたもう               
                         

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やれやれ・・・

全く以て凄まじいほどの歓喜であります。



 ♬晴れたる青空 ただよう雲よ~  小鳥は歌えり 林に森に~♬



聞き慣れた唱歌の、あののどかさとは大違い。

急性アルコール中毒でそのまま臨死体験しちゃった人の幻視みたいな、かなりハイパーな内容となっております。



「全ての人が兄弟姉妹のように、愛し合いハグし合えば、世界には本当の平和が訪れ、人は神のレベルの喜びにも到達出来るのだ」というメッセージですが、なんだかもう完全にアセンションしちゃってます。

さすがはEU連合の歌になるだけあって、ワンネス・統一性の象徴をあらわしてますね。

一説によるとシラーはフリーメイソンの理念を詩にしたとも言われてるので、ちょっと危険な香りもありますね。


欧州統合を成し遂げた今、さらに世界を強固にまとめる世界統一政府(NWO)を目論む人々の思惑やいかに・・・


一部の権力者にコントロールされた世界統一政府ってのはいただけません。

ワンネス思想は美しいけど、落とし穴も多いと知りましょう。




それにしても、人間の体験しうる最大の歓喜っていうのは、これ程までに神憑った体験になるのでしょうか。

神と人間とが融合する瞬間の事を言っているみたいですよ。

そうだとしたら、私はまだ本当の歓喜を知らないって事になりますね。


ケルビムなんて天使の存在、初めて知ったし・・・


一度でいい、この肉体が朽ちる前にこんな歓喜を味わってみたいものです。




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by viva1213yumiko | 2012-12-25 14:37 | 季節・行事 | Comments(0)

くるみ割り人形外伝

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毎年12月になると必ず上演されるバレエ[くるみ割り人形]


クリスマスの日を題材にしたファンタジックなバレエなので、大人から子供へのクリスマスプレゼントに最適です。

私自身子供の頃、夢のように美しい舞台に感激した事をよーく覚えています。



クララはクリスマスプレゼントにくるみ割り人形をもらう。

真夜中、広間は騒がしくなり、くるみ割り人形はねずみの王様と戦いを始める。

危ういところで人形の危機を救うと、人形は王子様に変身しクララをお菓子の国に連れて行く。

お菓子の国で楽しく過ごしたけれど、それは全てクララの夢でした。


という物語ですよね。



「みんな夢でしたとさ・・・」

このとてつもなく便利この上ない結末は、おとぎ話の定番ですが、くるみ割り人形の原作はこれ程単純じゃなく、もう少し込み入った状況設定がされています。


原作はE.A.T.ホフマンの児童向けメルヘンで、1816年出版の[くるみ割り人形とねずみの王様]なのですが、少女マリーはドロッセルマイヤーおじさんに「なぜくるみ割り人形は醜いのか?」という過去の因縁話を聞かされる、というくだりが入っているのです。


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ドロッセルマイヤーが語るには・・・


ニュルンベルグの王国にピルリパート姫という美しい王女がいたが、ねずみの魔女の呪いによって醜いくるみ割り人形に姿を変えさせられた。     

その呪いを解くには世界一固いクラカーツクのくるみを割って食べさせなければならない。

それが出来るのは一度もヒゲを剃った事がなく、長靴をはいた事のない若者だけ。
   
一人の若者がそれをやり遂げて姫の呪いを解いたのだが、変わりにその若者が醜いくるみ割り人形にさせられ、さらに醜いが故に姫から結婚を拒否されてしまう。
   
占いによると、若者が自らの力でねずみの王様を討ち取り、醜い姿にも関わらず愛してくれる貴婦人を見つけなければならないらしい。

いまだにこの難問は解決せずに、若者はくるみ割り人形のままだという。


その話しに夢中になった少女マリーは、気の毒な運命のくるみ割り人形を救う決心をするのです。

そして結局、マリーの機転でねずみの王様を打ち倒した人形が、恩人マリーを人形の王国に招待します。


竜宮城みたいに素晴らしい、マジパン城での歓待。

けれど家に戻ってその話しをしても、誰にも相手にされないのです。

しかしマリーにとって人形の国の夢は現実の出来事と同じ。

ある日、くるみ割り人形に「私がピルリパート姫ならあなたが醜いからって蔑すまないわ」と言って、そのまま気を失ってしまいます。

気付くとドロッセルマイヤー氏の親戚の少年がおり、「あなたのおかげで呪いが解けました。結婚して下さい」とマリーに結婚を申し込みます。

こうしてマリーの憧れていた夢は実現するのです。



物語は幻想的な世界を紡ぎ出し、最後は夢なのか現実なのか分からないまま終わってしまいます。

果たしてマリーは本当に人形の国の王妃になったのか、いつもの空想のまま眠りについたかが曖昧なのです。


若者の方もそうです。

呪いが解けて現実となったのか、呪いが解けて夢になったのか・・・

ホフマンという作家の、夢幻の世界に傾倒する性質が伺えます。


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ところで、この原作のお話しの中でくるみ割り人形は醜いとされてますが、ドイツ・エルツ地方名産のこのくるみ割り人形、私にはとても醜いとは思えませんけどねぇ〜


ホフマンの時代は、もっと恐ろしい、いかめしい顔が多かったのでしょうか?

それとも素朴な人形がカーッと大口でクルミを齧る、その豹変ぶりを醜いと表現したのでしょうか?


王様とか騎兵隊とか警官とか、権力者の姿が多いのも「うるさいお偉いさんの口をクルミの実でふさいでしまえ!」という庶民の反骨精神がルーツなんだそうで由来もなかなか面白い。

支配者達に呪いをかけて人形にしてしまいたかったのは、案外国民の潜在的な願いだったのかも知れませんね。



まあいずれにしても、あなたが心から<聖なる結婚>を望むなら、一番最初にすべき事は、魔女の呪い(心の闇)を解かなければならないって事なんですねぇ〜 

オーホッホッホッホ・・・




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by viva1213yumiko | 2012-12-12 23:59 | オペラ・バレエ・映画 | Comments(0)