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天国への門

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針仕事が苦手だ。


つまり裁縫が苦手ってことです。


裁縫は遥か昔、家庭科実習の時間に習っているはずなのです。


<並み縫い><返し縫い><ぐし縫い><まつり縫い><かがり縫い>とか・・・


教室でひと通り学んでいるはずなのに記憶の殆どが欠落してます。


当時の少女たちに爆発的に流行ってた<リリアン編み>にも挑戦しました。


でも編んだ紐を小物に仕上げるには、針と糸が必要とは知らなかった。


だから紐だけはたくさん編みあげて、そしては放っぽらかすの繰り返し。


色とりどりの刺繍糸も、いつも結局コレクションに終わってしまうのです。


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針仕事をすると思うだけで未だにからだに緊張が走ります。


全身の細胞が苦痛信号をキャッチしてしまうのだ。


裁縫にまつわる何かが、自分の中の何か大きな欠落ポイントになってるようなのです。


これ、私の<鬼門>とも言えそうだ。


スカートの裾直しをしたいなら、所要時間を半日以上は見積らなければならない。


シャツのボタン付けだったら一時間。


それぐらい十分に時間を確保しなければならないのだ。


こうなると裁縫が苦手というより、むしろ「全くセンスゼロ」と言った方が正確だ。


楽しく感じないから益々やりたくなくなる。


そして裁縫そのものとのご縁が失われて行く。


このようにご縁が結ばれない原因というのは、すべてこちらの側に存在しているものなんですね。


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一体何のカルマだろうか?


悔し紛れに過去生ドラマの可能性を考えてみました。


人を騙し騙され、すべてを悲観したお針子人生でも経験してるのでしょうか?


例えばオペラ<ラ・ボエム>の主人公、ミミのような薄幸な人生のこと。


彼女のようなドラマチックな人生を送っていたとしたら、お針子という仕事そのものを憎んでる可能性あるなぁ。


などと勝手な妄想を遊ばせる私。(割とヒマ人)


兎にも角にもそんな風に思えて来るほど、私にとって針を持つことは難行・苦行でしかない。


第一に針の穴はあまりに小さく、全くもって見えやしない!


だから針に糸を通すという最初の段階で、心はすっかりくじけそうになる。


そして針を手にする度、その針の切っ先は私の指を否応もなく突ついて襲撃し、私を傷つけようとして来るのです。



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私は人類史において、裁縫という技術を発案した者を憎まざるを得ない。


歴史の初期に裁縫をしていた人々はきっと、動物の毛皮や樹の皮などを蔓で結びつけたり、衣服や敷物など仕立てていたはずだ。


でもどのような針に蔓を通して縫い合わせていたのだろうか?


獣の骨を加工したのか?


それとも硬い木の枝などか?


いずれにしても初めて針穴に糸を通した旧石器時代の人物は、当時におけるケタ違いの偉人だったに違いないんです。


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<針の穴>で思い出すのが聖書のたとえ話しです。


「先生、どんな人間が天国に入れるんでしょうか?」


ある時弟子にそう尋ねられたイエス・キリストはこう答えたそうですよ。


「金持ちが天国の門をくぐるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい・・・」


これは有名な話しなので聞いたことある人も多いと思います。


しかしいくら何でも「大きなラクダが針の穴を通る」なんてあまりに突飛すぎる表現ではないですか?


<たとえ話し>特有の大げさな誇張だとしても、一体これってどういうこと?


きっと質問した弟子も頭の中クエスチョンマークだったと思います。


「はぁ〜? あの大きなラクダが針の穴を通る? ムリムリ絶対ありえないっしょ」


「お前アホだな〜 金持ちは天国に行けないって、多分先生はそう言ってんだよ」


と、弟子たちも口々にざわめき立ったはずです。 


その様子を見ながらジョークのお好きなイエス・キリストは、こっそりほくそ笑んでたに違いありません。 


多分・・・ですけどね。(笑)


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金持ちは本当に天国には行けないのだろうか?


いやいや、ちょっと待って下さい。


イエスが言いたかったことはそれとはちょっと違うのです。


ここでちょっと、私もたとえ話しを使って解説しましょう。



ほら昔の商店街のお祭りの時などに、<現金掴み取り>イベントっていうのがあったでしょう?(知らないか)


ガラスの容器に10円玉とか100円玉とかいっぱい入ってて、それを容器の狭い入り口から手を突っ込んで、取れるだけ取ることが出来るっていうアレです。


アレって大人の男性とか手の大きな人が、ガバっと掴めば有利そうに思いますよね。


でもそこにはカラクリがあるんです。


大きな手でお金をたくさん掴めば掴むほど、その分強く手を握りしめなきゃならなくなって、容器の外に手を出せなくなってしまいます。


イエスは金持ちにとっての天国もこれと同じと言いたかったんだと思う。


この世のものに執着し「これだけは失いたくない」とガバッとたくさん握りしめてたら、神の国には入れなくなってしまう。


物質的な富が多いということは、そのためにたくさんの時間とエネルギーを消費しなければなりません。


その分執着心も強化されるので、そこらへんにも注意が必要です。


お金持ちが天国に行くためにはそのお金の使い方が問題になりそうですね。


お金を支配したつもりだったのに、逆にいつの間にかお金に支配されてしまう。


そうなると「天国への門は針の穴より狭き門になっているであろう」


イエス・キリストはそう伝えたくて、奇妙なたとえ話しを持ち出したんだと思うのです。


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もっともこの話しには前段階があるのです。


ユダヤ教の教えとされる「殺すな・姦淫するな・盗むな・嘘つくな・父母を敬え」などの十戒を実行して来た優等生の青年が、ある時イエスに「永遠の生命を得るのにさらに必要なものはありますか?」と問いました。


するとイエスは「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう」と答えたんだそうです。


それを聞くと家がお金持ちだったその青年は何も言えなくなり、すごすごとその場を立ち去って行きました。


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イエスの真意はこうです。


「そんなのは人間に出来ることではない。しかし神には出来ないことなど何もないのだ」


神様の目から見ても、弱者の存在を心に止め援助の手を差し伸べる青年の姿は、好ましいものに映っていたでしょう。


でも基本的に財産にしがみついて生きるこの青年は、朽ちる世界に生きてる存在であって、霊なる存在としては生きていない。


だから永遠の生命は育って行かない。


イエス・キリストの言いたかったことはきっとこうだったと思いますね。


あ、でも日本語には「地獄の沙汰も金次第」という素晴らしい格言もあります。


一概にイエスだけが正解とは言えないかも知れませんけどね。(笑)



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何かで読んだのですが、昔あるところに本当に<針の穴>と呼ばれる、狭くて小さな門があったんだそうです。


旅人たちがそこを通り抜けるにはラクダからすべての荷物を降ろし、ラクダも自分もひざまずくような姿にならなければこの門を通り抜けられなかった。


自分の人生にこびりついたすべての重荷を降ろし、この世の富への執着を捨て、謙虚になって神の前にひさまずいてくぐる門。


それこそ天国へと至る<針の穴>の象徴です。



あの評判の良かった優等生ですら、天国への道は遠く険しいのです。


「御国へと至る人? そんな人どこにもいませんよ~」


と、嘆く弟子たちに対してイエスは「人には出来ないが神には出来る」と教えます。


たくさんのものを握りしめ、固くなってしまった心を柔かくし、「全てを手放しても尚、失われない喜びを与えてくれるのが神である」と励ますのです。


その言葉の深み・重みに気づけた人間だけが、<針の穴>を通ることが出来るのかも知れませんね。



神様(日本風だとお天道様?)にすべてを委ねた結果として、「本当に充実した人生」「本当に幸せな人生」「ラクダの人生(楽な人生)」を生きて行ける。


そういうことになるんだと思います。


何だか最後、上手くまとまっちゃいましたがね・・・(笑)


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# by viva1213yumiko | 2020-12-10 12:48 | 人生・霊性 | Comments(0)